底其白く打つた点の聚りのやうな花を忘れ去ることが出来ない。自分はそれをシラクチの花として独り追憶を恣《ほしいまま》にして居るのである。
自分は茲《ここ》に数行の蛇足を添ひたいと思ふ。
明治四十二年の九月の末に此のシラクチを書いて間もなく自分は東北の旅行に出立した。小坂の鉱山へ行つた時はまだ十月のはじめであつたが天候の不順であつたせゐか非常に寒かつた。自分は人夫を一人連れて七里の間道を山越に十和田湖へ行つた。山は雨であつた。人夫は途中で通草《あけび》の実が採れるといつて居た。自分は内心それを楽みにして居た。然し雨が絶えずしと/\と降つて居たので通草を探すことが出来なかつた。山越は只つまらなかつた。それでもイタヤやカツラが際立つて黄色になつた山の梢の上からすぐ足もとに十和田の湖水を見おろした時は嬉しかつた。湖水を抱へた向の低い平な薄紅葉した山に其時丁度カツと日光が射し掛けた。湖水は磨いた銀のやうに見えた。人夫は其低い山を膳棚と呼んで居るといつた。坂をおりて行くうちに自分等はまた密樹の間に没してしまつた。それから大分道程が進んで来たと思ふ頃一人の壮夫が坂をのぼつて来た。韮山笠の周囲を切り去つたやうな小さな編笠をかぶつて手に何か袋を提げて居る。行き違つてから振り返つて見ると後になつて居た人夫が其男と噺をして居る。自分へ追ひついた時人夫は「コカ」を少し貰つたといつて木の実を五つ六つくれた。西洋種のサクランボのやうな形の心持大きいので灰色がゝつた青い実である。佳味いからといふので口に入れて見るとぐやりと軟かなものである。少したべたせいか酷く佳味かつた。自分はもつと欲しいと思つた。湖畔に添うて行くうちに腕位の木が一本道に伐り倒してあつた。木には指程の蔓が絡まつて居る。此は今の男が伐り倒したのでコカを採つて行つたのだと人夫はいつた。此の蔓がニキヤウといふので其実がコカだといふのである。僅かな木の実を採るために攀ぢのぼることの面倒を厭うて、腰へ挟んだ鉈《なた》で遠慮もなく木を伐り倒したのである。自分は山中の人間といふものは恐ろしい無造作なことをするものだと思つた。コカといふものがこんな所にあるものかと聞いたらそこらに幾らでもあるだろうと人夫はいつた。自分は人夫にもさういつて行く/\あたりを注意した。然し十和田へ着くまで到頭コカは獲られなかつた。次の日自分は湖水に船を泛《うか》べて周囲の山の薄紅葉を見た。山葡萄の赤みがゝつて黒ずんだ葉が布の如く山の半ばを掩ひかぶせた間にイタヤとカツラとが黄色に秀でゝて居た。自分はそこらにコカはないのかと思つた。其晩は十和田神社の別当の家へ泊つた。湖畔であつたが酷く隠気であつた。家は近頃焼けて急に新築したといつて壁もない只の板囲ひである。其板も生木を打ちつけたと見えて隙間だらけに成つて居る。冬になつたら此では迚《と》ても凌げまいと思つた。自分は思ひ出してコカがあるかと聞いた。宿の子がすぐに皿へ持つて来てくれた。自分はうまい/\と思ひながら忽《たちま》ちに喰べてしまつた。さうして噛み出した皮まで噛んで見た。皮には少し酸味を含んで丁度香竄葡萄酒を飲んだやうな味がする。翌朝自分は囲炉裏の焚火にあたりながら又コカを請求した。宿の子が此度は木の皮で編んだ袋のやうなものに入れた儘自分に出してくれた。此のうしろの樹立へ行けば幾らでもあると別当はいつた。自分は余り喰べると口中が荒れるからと注意されたけれど悉くたべて畢つた。或は此が渋の鶴爺さんのいつたシラクチの実ではあるまいかと思つたので、此の蔓は洋杖にするものではないかといふと焚火の榾《ほた》を燻べながら別当がさうだといつた。自分は何だか非常に嬉しかつた。別当の家を立つて湖畔を伝ひて秋|茱萸《ぐみ》が草のやうに茂つた汀を暫く歩いた。茱萸は漸《ようや》く成熟しかけた処で薄赤くなつたばかりであつた。樹立の間から明るい湖水を見つゝ小坂への本道だといふ薄荷越へ志した。薄荷の坂へついた時二三人連の女に逢つた。皆筒袖で空の叺《かます》を背負つて居る。四角な布を三角に折つて頬冠のやうにして頭を包んで居る。女に聞くと其布は風呂敷といふのである。山で何をするのかといふと橡の実を拾ふのだといつた。自分はふと又コカはニキヤウへ成るのだなと念をついたら此の女もさうだといつた。それで白い花がさくのだなといふと此もさうだといつた。自分は小坂へ帰つてからすぐに十和田でコカを喰べたことを書いて二三の人へ葉書を出した。此の人々へは嘗て鶴爺さんの噺をして居たのである。香竄葡萄酒のやうな味がしたと葉書へ書くことが手柄でもしたやうに自分には愉快であつた。
底本:「花の名随筆10 十月の花」作品社
1999(平成11)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
1977(昭
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