ないであらうと想像せられる。七十三といふ老年であるにも拘らず山坂を踏んでは壮者も及ばぬといふ元気が其容貌と態度とに表はれて居る。火縄銃を執つて分け入る時凡そ如何なる野獣でも適当の距離に於て彼の目に入つて其筒先に斃《たお》れないものはなかつた。彼は又木を攀ぢて野獣の徘徊するを求めることがあつた。獲物が近づいて来ればそれまでゞである。其獲物が一旦方向を転ずるか物に怖れて疾走する時彼は一躍して之を追うて咄嗟《とつさ》に一丸を放つ。若《も》し一度でもそれが徒労であつたならば信州第一の名を博する所以ではない。或時子を連れた女熊が木の実を求めて橡《とち》の大樹を攀ぢつゝあるのを発見した。熊は悉《ことごと》く其樹を下る余裕を与へられなかつた。熊は三個の屍躰を其樹下にならべた。又熊が前肢を挙げて搏撃《はくげき》せんとして迫つて来た時は、彼は橡の大樹を繞《まと》つて遁げながら其狙が敵の咽喉部を貫いたことがあつた。それが一発毎に銃口から火薬を装填する火縄銃の操縦である。絶倫の技倆は兄弟共に松代侯の知る処となつて其|扶持《ふち》を受けて居た。自分はこれだけのことを彼に逢ふ前に聞いて居たのである。さうして親しく其事実を質して見た。彼は幾らもそんなことは有つたのだと別段取り合ひもせぬといふやうな態度である。彼は時々ぎろりとした眼を薄闇い灯にきらめかす。然し彼の声は稚い且優しい声である。眼を閉ぢて其声のみを聞いたのでは身躰鉄の如き鶴爺さんを想像することは出来ぬ。彼は旧藩主に死なれなければ今日こんな難渋はしないであつたと自身の不遇を語る。それから又税金が嵩むので、自分は既に銃を捨てゝ其業を子に譲つたといつた。座敷に吊つてあつた穢い蚊帳の中から一人の壮夫が出て来た。それは彼の子であつた。遠来の客なる自分のために其壮夫も亦《また》猟の噺をした。其年の春一つ処で猿十三頭を打つたといつた。それが一日のうち僅小な時間の獲物であつたといふに至つて尠《すくな》からず自分を驚かした。然かし今ではもう野獣の数が減少して畢《おわ》つて熊でも猪でも鹿でも殆ど其足跡を見なくなつた。猿の如きも犬の至り能《あた》はぬ崖を求めて棲息して居るに過ぎないのだといつた。それがどこには幾つと鶴爺さんは数へあげる。彼は又以前は此の野獣がどれ程居つたものであつたか殆ど積りも出来ない。随《したが》つて自分の打つたのもどれ程であつたかを数へて見ることが出来ないと云つた。鶴爺さんは数へ切れぬ野獣を打つて一方には藩主の保護をも受けて居た身でありながら今は此の如き陋屋《ろうおく》に燻《くす》ぶつて居るのである。老後の為めには彼は無益に其絶倫の技倆を発揮して居たのであると思ふと此の岩畳《がんじよう》な老夫が寧ろ哀れつぽくなる。然し鶴爺さんの渾身は信州人が有する勇悍なる気性の結晶である。渋に此の如き猟夫の有つたことを伝ひ得れば彼の為めには十分である。野獣の絶滅と共に将来|復《また》た彼が如き猟夫を見ることは不可能でなければならぬ。彼は彼等の社会に於ける最後の光明である。
 彼が語つた少時の功名は自分をして更に長く彼を忘れしめないであらう。それは彼が十三の秋であつた。彼の母が非常に「シラクチ」の実を好んだので時々それを採りに行つた。「シラクチ」の実は熟すと自然に酒の味がして佳味《うま》い。或日火縄銃を担いで山を分けて行つた。彼は父なるものが猟夫であつたので鉄砲持てるやうになつてからは自然山鳥などを打つて遊んで居たのであつた。シラクチの実を採ろうと思つて居るとがさ/\と近くに響を立てるものがある。凝然としてすかして見ると大きな黒いものがのそり/\と動いて居る。直ちに鉄砲を取り直して火蓋を切ると只一発で転がつた。斃れたのは三十余貫の熊であつた。野獣を打つたのはそれが始めてゞあつたといふのである。十三才の少年には長い火縄銃は立てたら其身に余つたであらう。其火縄銃を肩にして行く処は其天与の大胆な気性がなかつたとしたならばそれは余りにいた/\しいことでなければならぬ。さう思つて見ると散り乱れた黄色な木の葉を踏んで樹蔭に身を寄せながら熊をすかして見て居る少年の姿が見えるやうである。それを聞いた時自分はすぐにシラクチといふのはどんなものかと聞いた。それは樹に絡つて白い花がさくのだといつた。自分は其後ふと嘗《かつ》て見た白い点の聚りのやうな花を思ひ出した。さうして霧の中に白い柱の如く立つて居た其花と同一ではないかと思つた。然しそれは鶴爺さんのいふシラクチといふものであるかないか、又其地方でいふシラクチといふものが植物学者によつて知られて居る名であるかないか、自分はちつとも知る所がない。例令《たとい》自分の聯想《れんそう》が誤つて居たとしても自分は霧の中の白い柱のやうな花と其シラクチを分離せしめたくはない。自分は鶴爺さんの噺から到
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