沈黙の扉
吉田絃二郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)凱歌《かちうた》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ちから[#「ちから」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)たび/\
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私の生活がどんなに苦しい時でも、私は「私が生まれなかつたら……」といふやうなことを考へたことは余りない。私自身の生活に対して、どれほど疑惑や失望を抱いてゐる際にでも、私は生まれたことを後悔するやうなことはない。少くとも生命を信愛しようとする心だけは失はずにゐる。
私が惑ふ時、私が悲しむ時、私は一層生命を劬はり、生命を信愛する心を覚える。もし私が自分で自分の生命を断つことがあるとしても、それは私が自分の生命を疎んじた結果ではなく、余りに生命に執着し、余りに生命を信愛せんとした心からであるにちがひない。私は私が自殺するほど真剣に私の生を想ひ、私の生命を突きつめて信愛することのできないことをもどかしく思ふ。生を信愛する心と、生命を断つ心とは、全然矛盾してゐるやうに見られるが、私にとつては矛盾してゐるとは考へられぬ。生を熱愛する私の感情と、生そのものゝ真実を攫まうとする私の理智とが絶えず相剋して、二つの間に溶けがたい隔りができる時、私は盲目的に生命を愛して行くか、或ひは自ら生命を断たなければならぬ境に入る。私は余りに愚かな私の理智を悲しむ。私の理智の眼が余りに力弱きものであることを悲しむ。しかも私は生命信愛の情に乏しいことを余り経験しない。殆んど生の信愛そのものが私の生命であり、生活であるやうにすら考へる。生きて行く現実から信愛の心を削つたならばその刹那に私の生活は滅びてしまふであらう。生命信愛――不断永劫の――はやがていのちの流れそのものではないか。私は何故に自己の生命を愛すべきかを知らない。しかし私は生命の信愛なしには一日も生きて居れない。智慧の実を食はなかつた時のアダムにも生命信愛の念はあつた。否な、かれは生命信愛そのものゝちから[#「ちから」に傍点]に動かされてのみ生存してゐたであらう。
生命信愛の念は人類にあたへられた本然的の意欲である。さらに押し拡げていへば、あらゆるいのちの表現の本然性である。栗の花はいのちの表現のために、微風に揺られつゝ生の信愛に顫いてゐる。庭前の梧桐も、百合も、アカシヤも一様に同じいのちの懐しさに顫いてゐる。
油のやうな大河の流れに六月の碧空が映る時、燕は軽やかな翅を羽叩いていのちの凱歌《かちうた》をたゝへてゐる。蘆の間の剖蘆《よしきり》も、草原の牝牛もいのちの信愛に輝けるいたいけな眼を瞬いてゐる。
草原のなかに突つ立つてゐる一本の樹に対して私は幾度か「友よ!」と声をかけて見たいと思つた。今も私は、時々森に入つては眠れるが如き立ち樹に対して、かれのたましひと物語つて見たいやうな気がする。眠れる銀杏樹のなかに、沈黙せる老樫のなかに、人間と人間との言葉が言ひ表はすことのできぬ不可思議な大きな力や、理智や、思ひやりがかくされてあるやうに想ふ。宇宙が造り出された劫初から、樹と樹とは物言ひ、鳥と鳥とは物語つてゐるであらう。それは人間の知らない、また人間の眼に見ることのできぬ世界の言葉であるにちがひない。私の貧しい室のなかにも、私の古ぼけた机の上にも、どんなにか美しい、どんなにか光りに満ちた世界が表現されてあるのかも知れない。その世界が、蜜蜂や蟻の眼には感じられ、或ひは見られるのであるかも知れない。森のなかにはいのちの霊《く》しきちからが織りなした無数の驚異が秋の夕の星のやうに漂ふてゐるかも知れない。たゞあはれな人間の眼には梢の頬白や、梢の白い天人椿の花弁のみが見られるだけで、それ以上のちからのあらはれは私たちの意識には映らないのかも知れない。音や色彩ですらも私たちの耳や眼に達するものは、物理学上の約束の内に限られてゐるではないか。私たちは一定の範囲内の振動をのみ感ずることができる。その埒外に置かれたるいのちの表現を知ることはできない。
森といふ森、曠野といふ曠野は悉く眼に見えざる不可思議なものによつてつゝまれてゐる。私たちは紅い花弁を発見した。白い翅の羽叩きを聴いた。しかしそれが何であらう。限りないいのちの表現としてそれはあまりに貧しい表現ではないか。かぎりもない美しさ、かぎりもない明るさ、かぎりもない幸福が自然といふ自然のなかに湛へられてゐるであらう。私たちは少かに自然の窓を透して、かすかに洩れて来る法悦のさゝやきや、静かに漂ふて来る久遠の楽の音を聴くのみである。私たちが見る自然――いのちの表現としての――は、たゞ少かにその窓口から覗いてゐる一輪の花弁に過ぎない。殿堂の奥から流れて来る楽の余韻に過ぎない。私たちから
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