しい戦士のそれよりも深刻な、痛切な、徹底的な争闘を争闘しつゝあることを信ずる。
 欺かれても宜い、それが迷ひであるならば迷ひであつても宜い。よしそれが夢であらうと、幻であらうと私は静黙の扉に立つて、私の内心に共鳴する驚異の世界のいのちの楽の音を聴かう。もしそのいのちが私のいのちを鼓舞するならば、もしその幻が私の生活の基調となつて、私の生活を根柢から動かして行くものであるならば、それは私にとつて真実である。現実である。私の個性が静黙の扉前に立つことによりて、真実の自己を見出すことを得、真実の生命を実感することができるならば、それこそ私にとつて絶対無二の現実でなくて何であらう。
 自然! それがつゝめるあらゆる驚異! 私は汝の永久に鎖されたる扉前に立ちて汝を崇拝する。汝の慟哭は私の慟哭であり、汝の生長は私の生長である。汝が私語く時私は聴き、私が祈る時汝は私に聴く!
 私は永久に汝に面し、汝と語らう。沈黙せよ、沈静せよ、そこに始めて汝と私との心と心とが共鳴の楽を奏づる。
 森よ眠れ、白き翅の鳩よ眠れ、天空に眠れ、流れよ暗のなかに沈め!
 沈黙と暗黒と寂滅! そこに始めて真実の生命が動き、真実のちからが伸展する。
 野よ日暮れよ。高原よ凩を止めよ。空と水と市街と悉く滅びよ。黝暗と死静とがすべての世界を支配せよ。そこに始めていのちの潮が高鳴りの響きを伝へる。そこに始めて内なる世界のうごめきが始まる。
 私は最後に一言附け加へて置かなければならぬ。それは沈黙なる言葉の内容に就いてゞある。沈黙とは必ずしも無意識無争闘といふ意味ではない。私が強ひて沈黙を主張する所以は、ともすれば外に向つてのみ、いのちの伸展を索めようとする現代の私たちの心は、やゝもすれば内なる生命の空虚を忘れんとする傾向を多く持つことを恐るゝからである。
 沈黙は内に向つての争闘である。沈黙は霊の世界に於ける戦ひである。沈黙は我れ自身に向つての争闘である。
 社会、他我に向つて戦はれる争闘は時として絶ゆることがある。けれども我自身に向つての闘ひは永遠に絶ゆることはない。真に生きる者は常に我自身の内に闘ふことを忘れない。
 沈黙は内なる世界の覚醒である。内なるいのちのうごめきである。真に永遠なるいのちの伸展である。
 此の半世界が日暮るゝ時、他の半世界が光明の世界を現すやうに、私達の心が外から内に向けらるゝ時、私達の真実の世界が私達の内に現じて来る。
 沈黙は内なる世界の光被である。



底本:「日本の名随筆 別巻89 生命」作品社
   1998(平成10)年7月25日第1刷発行
底本の親本:「第一感想集」新潮社
   1931(昭和6)年2月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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