高波は、やがて扉の外に立てる私の胸の高波となつて揺らぐ。内殿に溢れたる光明はやがて私の小ひさな胸底の暗を照らして、さゝやかなる光明の世界を私の心奥に形作る。
 勇敢な人々が街頭に立ちて争闘を宣言してゐる時、私は何といふ意気地なしであらう。私は驚異につゝまれたる殿堂の扉の前を離れることはできない。
 私が眼をつむつて扉によりかゝる時、潮のやうに打ち寄せて来る内殿の驚異は、私の全身の血といふ血を同じ驚異のちからに波打たせる。私は沈黙しつゝ、瞑想しつゝ、そして静かに内殿の神秘の楽の音に聴く。
 勇敢なる人々は、人と人との争闘にかれ等の生命をかけて戦つてゐる。生の争闘を争闘せる人々の剣戟の音を聴きつゝ、私は遥かなる森の廃寺の前に立つて、老木の梢に梟の声を聴き、またはかげらふ正午《まひる》の陽光《ひかり》を浴びつゝ怠惰な安易を貪つてゐるのではないだらうか。私は怠惰者の沈黙を守つてゐてはならぬ。私は剣を執ることを知つてゐる。街に出て闘ふことを知つてゐる。私たちの生活そのものが争闘なしには一日も、一瞬も存在しないことを知つてゐる。
 しかしながら静寂なる森のなかの沈黙! 沈眠せるが如き廃寺の前の瞑想! そこに言ひ知れぬちからの歓喜を聴くことのできる私たちの心霊を想へ!
 人々が街頭に馳駆する時、それは人々にとりて真実の生活であり、真実の争闘であらう。しかしながら私が廃寺の前に立つ時、それは私にとりて真実の生活であり得ないだらうか。そこに生のための争闘がないだらうか。
 私は争闘といふ文字を余り使ひたくない。争闘といふ言葉は私をしてむしろ消極的な、または強者に対する被征服者の弱味を聯想せしめる。私たちの内なるいのちが真実に充たされる時私たちは争闘なしに勝利者たり得る。私たちの生命が争闘また争闘によりて創造せられ、伸展せられるといふことよりも、私たちの生命が内から自然に湧き出づることによりて、或ひは新たにたえず湧き出づることによりて伸展するといふことが、より多く真実性を帯びてゐはしないか。
 私たちは到底一種の宿命から免るゝことはできない。生命の発現、生命の創造、生命の伸展すらも動かすべからざる宿命の軛につながれてゐるのではないか。いのちは伸展することが自然である、運命である。そして伸展するがままに伸展せしむるところに生命の実感が湧く。静黙の扉前に立てる私の心は、街を駆けつゝある勇ま
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