、百合も、アカシヤも一様に同じいのちの懐しさに顫いてゐる。
 油のやうな大河の流れに六月の碧空が映る時、燕は軽やかな翅を羽叩いていのちの凱歌《かちうた》をたゝへてゐる。蘆の間の剖蘆《よしきり》も、草原の牝牛もいのちの信愛に輝けるいたいけな眼を瞬いてゐる。
 草原のなかに突つ立つてゐる一本の樹に対して私は幾度か「友よ!」と声をかけて見たいと思つた。今も私は、時々森に入つては眠れるが如き立ち樹に対して、かれのたましひと物語つて見たいやうな気がする。眠れる銀杏樹のなかに、沈黙せる老樫のなかに、人間と人間との言葉が言ひ表はすことのできぬ不可思議な大きな力や、理智や、思ひやりがかくされてあるやうに想ふ。宇宙が造り出された劫初から、樹と樹とは物言ひ、鳥と鳥とは物語つてゐるであらう。それは人間の知らない、また人間の眼に見ることのできぬ世界の言葉であるにちがひない。私の貧しい室のなかにも、私の古ぼけた机の上にも、どんなにか美しい、どんなにか光りに満ちた世界が表現されてあるのかも知れない。その世界が、蜜蜂や蟻の眼には感じられ、或ひは見られるのであるかも知れない。森のなかにはいのちの霊《く》しきちからが織りなした無数の驚異が秋の夕の星のやうに漂ふてゐるかも知れない。たゞあはれな人間の眼には梢の頬白や、梢の白い天人椿の花弁のみが見られるだけで、それ以上のちからのあらはれは私たちの意識には映らないのかも知れない。音や色彩ですらも私たちの耳や眼に達するものは、物理学上の約束の内に限られてゐるではないか。私たちは一定の範囲内の振動をのみ感ずることができる。その埒外に置かれたるいのちの表現を知ることはできない。
 森といふ森、曠野といふ曠野は悉く眼に見えざる不可思議なものによつてつゝまれてゐる。私たちは紅い花弁を発見した。白い翅の羽叩きを聴いた。しかしそれが何であらう。限りないいのちの表現としてそれはあまりに貧しい表現ではないか。かぎりもない美しさ、かぎりもない明るさ、かぎりもない幸福が自然といふ自然のなかに湛へられてゐるであらう。私たちは少かに自然の窓を透して、かすかに洩れて来る法悦のさゝやきや、静かに漂ふて来る久遠の楽の音を聴くのみである。私たちが見る自然――いのちの表現としての――は、たゞ少かにその窓口から覗いてゐる一輪の花弁に過ぎない。殿堂の奥から流れて来る楽の余韻に過ぎない。私たちから
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