十二號)。もつともこれを書くに至つた木下の心持は複雜であつたと思ひます。堺が發起した社會黨に入ることを謝絶して『堺兄に與へて政黨を論ず』といふ私の長文を『新紀元』に掲げたのが八月で、それに對して幸徳が(既に米國から歸つて)また長文を寄せて『政黨なるものが、單に議會の多數を占めるを目的とする黨派、即ち選拳の勝利のみを目的とする者ならば、其弊や確かに君のいふ通り』だ。しかし『君のいふ如き政黨たらしむるか、將た革命的たらしむるかは、一に我等の責任に存することと思ふ』とあるのが、九月號であります。そして、この社會黨に參加した木下としては明白に去就を決する責任を感じたものでありませう。それに蘆花が『巡禮紀行』を書き百姓生活を始めて、時の青年達の間に大きなセンセーションを起したことも、木下の精神生活に多少の影響を與へたでありませう。この時に當つて『日刊平民新聞』創立の議が起り、私にも參加せよといふ要求がありました。
日刊平民新聞
幸徳がアメリカから歸つて來て間もなく、西川、堺等とともに『日刊平民新聞』創立の相談を始めました。それには竹内兼七といふ若い金持が資金を出すことになつて急速
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