間もなく形式ながら他家の養子にされた私は、いはば一家の餘分ものでした。況んや、家道の傾いた父から學資を送つて貰ふことはできませんでした。從つて周圍に起つてくるめまぐるしい變轉の浪に伴つて、わたしの生活も浮動するのでした。いろいろと自活の道を見出させようとして父は私に内職の仕事などを探させましたがうまく行きませんでした。その間においても、私は時間の都合を計らつて、國語や漢文や數學や英語などを一通り勉強しました。もちろん不規則な勉強ですから上達しませんでした。いま私の印象に殘つてゐる當時の修業の中では、帝國教育會(辻新次氏會長)内文學會における根本通明老師の論語や詩經の講義、畠山健氏の枕の草子の講義や立花銑三郎氏と元良勇次郎氏の倫理學などが、最も多くの影響をわたしの心に遺してくれました。二三ヶ月通學した山本芳翠畫塾の思ひ出も、出京後最初の勉強であつたことを理由として、深い懷しさの對象になつてゐます。先輩塾生中には湯淺一郎、白瀧幾之助、大内青也(?)などといふ、日本の洋畫界では最も古い人々がをりました。しかし環境の變るに隨つて、私の修業も變りました。交通の便もなし、自修の資材を缺いた當時では
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