物を食ふよりも馬鹿。かういふ哲學で村中の人が生きてゐたのです。ところが、私が八九歳になつた頃、即ち明治十七年頃、舊江戸の東京から利根川上流の高崎まで鐵道が敷かれました。これは地方の經濟生活に大革命を齎らさずには置きませんでした。殊に船着場であつた私の村は、全村失業状態となり、軒の傾かぬ家、雨のもらぬ家は、稀にしかないやうになりました。利根川河口の銚子町との間に河蒸汽を通はせることも試みられたが、もともと徳川幕府への御年貢米の運搬が特權の主要素であつたのにそれが喪はれて、自由競爭の世になつたので、何を試みても成功はしないのです。村の中にも眼先の利くものの叛逆が既に起りました。父は汽車ができると同時に半里ほど隔つた本庄驛の停車場の一番よい所に運送店を開きましたが、それも瞬く間に、多くの借金を殘して失敗して了ひました。永い間幕府の特權に保護されて來た舊家にとつて、維新以來の政治的、經濟的の荒浪は、餘りに高く餘りに烈しかつたのです。それに上品な父は、經驗の無い放蕩の長兄と分家の當主とに事業を任せて自身は舊い家に引込んでゐたのです。家道は益※[#「二の字点」、1−2−22]傾くばかりでありました
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