、それまでさなあ』と意味のありさうな、またなささうな返事をして行きました。度々面會に來て、差入物や内外連絡のことを引受けて世話してくれたのは福田英子姉でありました。入獄の際、わたしの書物や荷物は悉く福田氏のところに托して置いたので、監獄當局へも福田氏のところをわたしの社會生活の本據として屆けたのであります。
かうして在獄中もいささかのさびしさも感ぜず、大した不便も感ぜずに勉強ができました。親友逸見斧吉君は高價な洋書を丸善に注文して買つてくれ、それを福田氏に托して差入れてくれました。差入れられたノートも、積り積つて十五册になりました。それは自然に一卷の『西洋社會運動史』を構成したのであります。今日大册を成して世に出てゐるのは實にそれであります。
この獄中生活はわたしの思想に多くの生産を與へました。第一に進化論否定の萠芽を産み、第二に古事記神話の新解釋に目標を與へました。進化論に懷疑し始めたのは、カアペンターの『文明論』とクロポトキンの『相互扶助』とを讀んだ結果であります。クロはダーヰンの進化論の一部面を強調するために『相互扶助』を書いたのであるが、不思議にも、それが私に進化論否定の動機を與へたのであります。あの書を讀むと、諸動物間に行はれる相互扶助は人間界に行はれるそれよりも一層純粹に本能的であつて有力であり、その點から言へば、少くとも今日の人間界は或る動物より遙かに退歩したものと言へるのであります。人間でも古代の人間の方が近代人よりは一層純一であり、道義的であつたと言へるのであります。それはカ翁の『自我の分裂』の歴史『人類墮落の意義』と對照して、深い考察點を指示するものであります。わたしは新世界の鐵の扉が開かれたやうな氣持で眼を見ひらきました。
次に獄中で讀んだ書物中でわたしを喜ばしたのは『古事記』でした。わたしの第一に驚いたのは、古事記の言葉使ひが自由であること、從つて如何にも豐富であること、思想と言葉とが自由で自然で豐富であつて、その中に含まれた事實には寒帶地から熱帶地に及ぶ多くの地方色が伺はれること等これでありました。わたしの『古事記神話の新研究』の萠芽はこの時から生起したのであります。
こんな譯で、わたしの巣鴨監獄における生活は可なり多忙でありました。思想生活に於て右にのべたやうに繁忙であつた上に、赤衣を着て屡※[#二の字点、1−2−22]裁判所に引き出されました。それはわたしにとつて一種樂しい旅行でもありました。早朝に監房から出されて、草鞋を穿かされて、徒歩で東京監獄まで送られるのです。それから他の囚徒とともに法廷に馬車で送られるのでした。一人の看守に付添はれてさわやかな外氣に觸れながら巣鴨の町を歩くのは愉快でした。朝起きて店先を掃いてゐる婦人などが何と美しいことか! 婦人といふ婦人は大てい美人に見えました。それに引きかへて、男といふ男は悉くのろまに見えました。獄中では看守は勿論のこと、囚人でも、面つきにすきまがありません。常に緊張してゐる看守達の顏ばかり見てゐるわたし達の眼に映る社會の男の面が如何にも馬鹿面に見えたのは自然なのでありませう。
赤衣で深編笠を冠つて街を歩いてゐると、可なり人目をひくと見えて、街の人々の眼を見ひらく樣がをかしいほどでした。わたしが眼鏡をかけてゐたので『あの懲役人は眼鏡をかけてらあ』などと怒鳴る若者もありました。わたしは、そのやうな『旅行』にも手錠はかけられませんでした。特別な計らひであつたのです。教誨師などの口添があつたのではないかと思ひます。
かうして、裁判所に出ると、少くとも往復三、四日の旅行になります。長い時は一週間ぐらゐになります。そんな時は、早く――巣鴨の――家に歸りたくなります、不思議なもので、自分の居處と定まつた『巣鴨の幽居』が慕しくなるのです、そして巣鴨の鐵門をくぐり、衣服を全部改めて古巣に入れられると『やれやれ無事に歸れてよかつた』といふ安心感に滿たされます。
この古巣には、最初大杉と山口とが、右と左の兩室にゐたが、山口が病氣になつて病監に移され、次で大杉が怪我をしたとかで矢張り病監に行きました。私にも病監のなぞがかけられましたが、遂にあのこく寒の室に頑張り通しました。兩手の甲と耳たぼとは凍傷でひどくなり、遂には皮膚がカサぶたになつて脱落するに至りました。
暫らくすると、今度は堺と大杉とが入つて來て、右に堺、左に大杉が据ゑられました。大杉は一旦出獄して、また新事件でやつてきたのです、數週前に東京監獄から手紙をくれた堺が、自分の姿を見せてくれたので嬉しかつたが、二人は間もなく出獄して、私はまた一人ぼつちになりました。丁度その時讀んでゐた『平家物語』の島流しの俊寛は、二人の同志がゆるされて故郷に歸る時、その船に取りすがつて海水が首に達するまで離さなかつたとい
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