られました。それから、間もなく別棟の十一監といふところに移されました。ここはまた木造で、昔の牢屋を思はせるやうな、大きな格子に圍まれた室でした。ここでは山口と隣りして居を定められたので、毎日の生活がいささかくつろいできました。さらに、暫くすると大杉が入つて來ました。山口はわたしの左室、大杉は右室に入れられました。わたし達は輕禁錮で、勞役がないので、終日讀書ができて、こんな仕合せはないと思つてゐましたら、さらに机を新調して與へられ、ペンとノートの携帶をも許可されたので、わたしは希望の光明に充たされました。そして、すぐに勉強の方針を樹て、第一に西洋の社會運動史を順序だてて檢討しようと志しました。それは、從來のわたしの心裡において、宗教と社會主義と人生觀との間に存在した、多くの不統一點、無融合點を照らすべき新しい光明が、この勉強によつて與へられるであらうと考へたからであります。
先づイリー教授の書とカーカップの歴史を讀み、マルクスの『資本論』に喰ひつきました。面白い點も少くはないが、マルクスといふ男は、何といふ頭の惡い人間だらうと呆れました。思想がくどくて愚痴つぽいのです。勿論讀了どころか半分も讀めませんでした、そして、ジョン・レーの『現代社會主義』中のマルクス紹介で資本論をも卒業しました。マルクスに比してクロポトキンの『パンの略取』は實に愉快でした。これは少しも退屈することなく一氣に讀了することができました。しかし、この書が愉快きはまるにかかはらず、わたしはこの書に滿腔の信頼を捧げることができませんでした。その革命の道筋に於て、人生觀そのものに於て、いささか過超樂天的なところが見られました。その時わたしの出會つた思想家エドワード・カアペンターは、不思議にも、わたしの從來の一切の疑問に全的解決を與へてくれました。カアペンターの『文明、その原因と救治』及び『英國の理想』は、わたしの數年來の煩悶懊惱を一刀の下に切開してくれました。
勿論カ翁の書が解決を與へてくれたのは、わたしの勉強の進んだ一ポイントに丁度的中した一刀が、翁によつて與へられたことを意味するのです。マルクス歴史主義、歴史必然論が、人類解放の觀點から全くナンセンスであることに氣づいた私は、カアペンターの特殊な人生史觀によつて救はれたやうに感じました。人類の社會生活の變遷とその種々相を、自我分裂の事實によつて説明し、内なる統一と外なる統一とを全く不可分のものとし、遂に宇宙的意識に復歸することに於て、無政府にして共同的にして同時に貴族的なる眞の民主生活が實現せらるるものとするカ翁の説は、從來の宗教思想も社會思想も藝術も農工業も、すべてを一つの熔爐に入れて、新しい自由の全一の世界を創造する捷徑を明示するのでありました。
また碧巖録を讀み、論語、孟子、バイブルを讀み、古事記を反覆する間に、個人も、社會も、物質も、精神も、野蠻も、文明も、皆それぞれの面に於て『人間』といふ生命活動の一表現であつて、その自然の姿は終始一貫して『美即善』を追求してゐることが解るのでありました。カ翁の宇宙的意識といふのは、哲學者のいふ意識とは雲泥の相違があつて、それは宇宙的生命そのものであり、『人間』そのものであり、『眞善美』そのものであり、一面虚無であり、同時に實存でありました。
巣鴨監獄内の一年間の冥想は私にとつて、よき修業になりました。
巣鴨の幽居
「あなたのお話を聞いてゐると、監獄は樂しいところのやうに思はれて、何だか同情の念が薄らいでくる恐れがありますね」
ええ、ある點からいへば、あすこは私達の樂園でありました。毎日三度三度の食事は供へてくれますし、社會のやうに、あくせく働かないでも、生活の心配はなし、いささかも心が散らず、勉學に專心し、終日終夜、面壁靜坐默想に耽ることもできるし、こんな贅澤な生活は、外界では到底できません。
田中正造翁は面會に來てくれた時、立會の看守の顏を横目で見ながら『あなたは善いことをしてここにおいでになつたのだから、ここはあなたにとつて天國です。それ故、ここのお頭さんを典獄と申されます』と駄じやれて呵々大笑しました。翁に伴はれて來た二、三の友人も私も聲をあげて笑ひ合つたので、看守君も苦笑をかみ殺してゐました。
片山潛君も面會に來てくれましたが、あの人は正造翁のやうなユーモアがなく、何となく悲痛な面持ちで餘り多くを語らず立ち去りました。
自稱豫言者宮崎虎之助君も來てくれたらしいが、面會も許されず『健康を祈る』といふ看守長の言傳によつて、それを知りました。看守長は宮崎が白布に豫言者と書いてたすきがけにしてゐたと言ひ『あれはほんたうの豫言者かね』と問ふのでありました。『本人がさういふのですから間違ひはないでせう』とわたしがいふと、老看守長『さういへば
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