で入獄が延期になり、片山潛は一ヶ月以上も前に歸國してゐたので、送るには早く、迎へるには遲すぎる會であつたが、カナダの社會主義者ジョン・レーなども出席して、にぎやかでありました。
まだ入獄期は確定してはゐないが、どつち道、數重なる告發を受けてゐることで、いづれ暫時の離別は免れぬとあつて、諸方からの御招待に接し、わたしは些か甘えたやうな氣分にもなりました。三月廿九日の堺の『平民社より』に次のやうな記事があります。
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「△旭山は入獄の準備やら、送別の招待やらで大ぶん忙がしい樣だ、昨日は丸善から何かの本を二、三册買つて來た△昨日と云へば秩序壞亂で又やられた、あんなものが何うして、と云つた所で仕方がない、お上の遊ばされる事だ△今夜はお隣の新富座の伊井蓉峰君から招かれて、霞外と旭山と僕と三人で見物に行く、旭山は河合武雄が好で、入獄前に一度見たいと云ふのだ△又月末になつた、ノンキな事ばかり云つて居れない」
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伊井と河合のよいコンビで演ぜられた『瀧の白糸』に感動せしめられて、わたしは思はず瞼を熱くしました。樂屋に通されて伊井と河合とに會談したことも愉快でした。河合が、
「芝居でしてさへ囚人の役は骨が折れますもの、あなた樣もこれからさぞ御苦勞遊ばすことで御座いませうねえ」
など言うて、慰めてくれるのにつり込まれて、ほつと異性の温みに接する心地がするのでした。彼は樂屋に於ても、その動作から言葉使ひまで全然女性のやうでありました。
こんな呑氣な生活をしてゐる間に、山口孤劍君の『父母を蹴れ』といふ文章が朝憲紊亂罪に問はれ發行禁止の宣告を受けるに至りました。それは四月十三日のことであつたが、平民新聞は裁判の確定を待たずに、翌十四日を以て自ら廢刊するに至りました。社の内外ともに餘りに突然の決定で驚いたらしいが、無理をせずに玉碎主義を採つた譯でありました。幸徳と堺とは、既に幾度か平民社の維持方法に就いて相談もしたのであるが、前掲の堺の『平民社より』に『月末になつた、ノンキな事ばかり云つてをれない』とあるやうに五、六十人の世帶を維持するのは容易ではなかつたのです。資金補給を申し出た向もあつたのですが、ほんたうに主義のために出資してくれるのでなければ、後の煩ひになるので謝絶したのであります。そして政府が發行を禁止したので、其機をとらへて廢刊を斷行
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