で私は、暫時福田氏のところにゐて、友人、先輩、親戚等に頼んで、毎月少々づつ學資を貰ふことを約束するに成功しました。後には粕谷義三氏からも毎月送金してくれるやうになりました。そして當時上京してゐた從弟の下宿に同居することになりました。かうして私は明治三十一年に今の中央大學の前身東京法學院に入學し、三十四年に卒業するまで、極貧ながら專心勉強することができました。法律の研究など素より好んだ譯ではないですが、學資の補給を得るには、これが最上の手段であつたのです。私の本心は英語や哲學に傾いてゐたので、法律學校の講師の中には遂に一度も顏を見ずに過ぎ去つた人がある位でした。それでも卒業の時には可なりの成績であつたのは不思議なほどでした。
生涯の轉機
明治三十一年から三十四年までの私の生活は、私の一生涯の運命を決すべき樣々な激浪と渦卷とに飜弄されてゐた。それから學校を卒業して萬朝報記者となり、次で平民社の一員となつてからも、私の精神生活は決して明朗でなく、常に不安と焦燥に驅られてゐたが、しかし、それは學生時代に受けた衝撃の餘波に過ぎなかつた。
自分の古い傷をいま再びさらけ出すのは不愉快極まるが、その時代の自分を語るには、どうしても、それをぬきにする譯にはゆかない。いやなことでも意地になつて語らねばならない。私はすべてをマダムに打ち明けて物語つた。
明治三十一年の九月に今の中央大學の前身である東京法學院に入學し、それと同時に築地の立教學校の分校である英語專修學校(神田錦町)といふのに入學して自分のおくれてゐた英語の力を急増することに努めました。素より充分の學資がないので從弟の下宿(飯田町)に同居して、私は朝から晩まで英語學校と圖書館とに暮しました。從弟の室が三疊で、そこに机を二つ並べ、本箱を置いてあるのだから、言はば、そこらの警察の留置所にゐるやうなものでありました。その下宿も所謂素人下宿といふ奴で、水戸の藩士の未亡人と老孃との三人のお婆さんが細ぼそと營んでゐたのでありました。
明治三十二年のお正月元日に、われわれはこの下宿の親戚の家に當時流行のカルタ會に招かれて行きました。それは本郷の新花町といふ粹なところでありました。みんな興に乘じて夜の更けるのを忘れ、たうとう翌朝の初荷の聲を聞きながら飯田町の下宿に歸りました。ところが、これが縁になつてその家で私を養子に
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