、三人で食べることができました。)ことに平常無收入で無一物な田中翁が、どこからか工面して呉れたのだと思ふと、涙がこぼれるほど嬉しく感じました。
それから間もなく、たしか上野の三宜亭でわたしの出獄歡迎會が開かれました。それは西川光次郎君一派が主催したもので、堺君一派の人々は參加しませんでした。わたしの下獄以來、西川、赤羽、片山、田添(鐵二)等の一派と、堺、幸徳、大杉、荒畑、山川等の一派とは分裂して、大ぶ惡口を言ひ合つた樣子でした。最初のうちは思想傾向の相違で分れたらしかつたが、だんだんに感情的に他を排撃し合ふやうになつたのです。ところが西川、赤羽等と、片山、田添等とは更に分裂して、今度は初めから喧嘩になつたらしく思ひます。三宜亭の歡迎會に出席した高島米峰君は『石川君の同じ友人であり同志である堺君等がこの席に列ならないのは甚だ淋しい。議論は議論として、このやうな場合には皆一堂に會して共同の友を迎へたらどうだ』と一矢を放ちました。
こんなことがあつたので、私より一ヶ月おくれて出獄した山口義三君の歡迎會は、わたしが發起人になつて西川一派と堺一派との合同の形で開催しました。會場は神田の錦輝館の二階でありました。當時の錦輝館は政治演説會や大衆會合の場所として、東京隨一の名所でありました。伊藤痴遊の講談だの、サツマ琵琶だの、少年劍舞だのがあつて、すこぶるにぎやかでありましたが、肝腎の參會者の氣分が融和しませんでした。これは失敗したと氣がついた時は後の祭りでした、早く解散するに如かずと考へて、わたしが立つて閉會の辭と感謝の辭とを述べ始めると大杉と荒畑とは『無政府共産』『革命』等の白色文字を現した赤旗をふり、やがて私の言葉が終るや否や、高らかに革命歌を唄ひ始めました。まだ餘興が進行しつつあるとき、神田署の特高刑事は私のところに來て
「あの赤旗を卷いて貰ふ譯には行きませんか」
と要求するのでありましたが
「張り切つてゐるのだから、とても駄目だ、すてて置きなさい」
とわたしは答へました。
「それでは宜しいです」
といふ刑事の言葉にはいやに力が入つてゐました。
堺をはじめ、大杉、荒畑その他の面々はあたかも凱歌でもあげるやうに元氣一ぱいで會場を出て行きました。わたしは發起人として後始末をせねばならぬのでその事務を執つてゐると、館前の街は甚だ騷がしい。『大へんですよ』と告げてくれる
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