ふものは、未だに忘れ難い幸福な瞬間であつた。柔かい、ハーモニヤスな、チヤーミング・カラアの周囲の風光を賞しながら、閑寂を極めたあのクラポオの鳴く声を聞く夕べなど、私は甘へながら自然の懐に抱かれて居る様な心地がした。そしてコウした私の感情を優しく看護してくれた者はマダム・ルクリユであつた。

         ◇                  

 八年間の私の漂浪生活には、可なり悲しいことも、辛らいことも、多かつた。併しコウした優しい環境の中に生活して、私は従来経験したことの無い長閑《のどか》さと幸福とを享楽することが出来た。そして其間にも毎日必ず何か新らしい事実を学んで、身体と感情とを鍛へるばかりか、殊に此の五年間の百姓生活ほど、私の智識を向上させてくれたことは、私の生涯中に曽て無いことであつた。
 私はドム町に着いた其年から老人のフエリクスに伝授されて、トマトの耕作には非凡な成功を得た。町中の評判にもなり、百里を隔てた巴里にも送つて好評を博した。処が三年目の初秋の頃であつた。私の蒔いた馬鈴薯は、曽て初めてリアンクウル町で耕作した時の様に立派に成長したが、不思議なことにその馬鈴薯
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