多くを耕すといふ名誉の幻影に過ぎない。

         九

 吾等が地に着き、地を耕すのは、是れ天地の輪廻に即する所以である。工業も、貿易も、政治も、教育も、地を耕す為に、地を耕す者の為に行はるべき筈のものである。吾等の理想の社会は、耕地事業を中心として、一切の産業、一切の政治、教育が施され、組織せられねばならぬ。換言すれば、土民生活を樹つるにある。若し土民生活者の眼を以て今日の社会を見んか、如何に多くの無益有害なる設備と組織とが大偉観を呈して存在するかが、分るであろう。そして其為に如何に多くの人間が無益有害なる生活を営むかゞ分るであろう。そして其為に如何に多くの有為の青年壮年が幻影を追ふて生活するかゞ分るであろう。今や、世界を挙げて全人類は生活の改造を叫呼して居る。されど其多くは幻影を追ふてバベルの塔を攀《よ》ぢ登るに過ぎない。ミラアジを追ふて喧騒するに過ぎない。幻滅の夕、彼等が疲れ果てて地上に倒るゝの時、地は静かに自ら回転しつゝ太陽の周囲を廻つて居る。そして謙遜なる土民の鍬と鎌とを借りて、地は彼等に平和と衣食住とを供するであろう。

         十

 然り、地の運行、ロタシヨンとレボリユシヨンの運行、是れ自然の大なる舞曲である。律侶《りつりよ》ある詩其ものである。楽其ものである。俗耳の聴く能はざる楽、俗眼の見る能はざる舞、俗情の了解し能はざる詩である。梢上に囀づる小鳥の声も、渓谷を下る潺閑《せんかん》たる流も、山端に吹く松風の音も、浜辺に寄する女波男波のさゝやきも、即ち是れ地のオーケストラの一部奏に過ぎない。地は偉大なる芸術者である。
 吾等は地の子、土民たることを光栄とする。吾等は日本歴史中「土民起る」の句に屡々遭遇する。又、世人革命を語るに必ず「蓆旗竹鎗」の語を用ゐる。蓆旗竹鎗は即ち土民のシムボルである。其「土民起る」の時、其蓆旗竹鎗の閃めく時、社会の改造は即ち地のレボリユシヨンと共鳴する。幻影の上に建てられたるバベルの塔は其高さが或る程度に達したる時、地の回転運動の為に振り落されるのである。其幻滅のレボリユシヨンは即ち地のドラマである。

         十一

 地のロタシヨンは吾等に昼夜を与へ、地のレボリユシヨンは吾等に春夏秋冬を与へる。此昼夜と春夏秋冬とに由りて、地は吾等に産業を与へる。地の産業は同時に又地の芸術である。芸術と産業とは
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