分る。分業は自発的な連帯によつてのみ維持されるのである。個人の自由は相互主義の道徳によつてのみ保持されるのである。連帯なき分業は翼のない飛行機のやうなもので、発動機は如何に運転しても社会といふ大気の中に有機的に浮ばない。生産のない消費はあり得ない故に、生産者の組合を斥けて消費者の組合のみを模型にするといふのも、片輪である。
○ 分業と農業
尚ほ大機械工業に於ける分業制の弊に就ても、シヤルル・フウリエの如きは今から百余年前に注意し、労働の班列制を考案し、園芸と工業とを種々の部分に別けて、一定時間に交替すべきことを説いてゐる。また此頃大機械工業そのものも、或る種類にあつては、却て小規模組織に変ずるを利ありとする意見が出て来た。電気動力の使用の如きは、その主要原因をなすであらう。
フウリエは大機械工業主義を賛成し、その代り右の如き交替制を案出したのであるが、それは農業に於ても、同様な案を立てゝゐる。然るに工業に於ては細かな分業制も已を得ぬと認める人々も、農業の分業制は不利の場合が多いと説くものが少くない、クロポトキンも、カアペンタアも、それである。
カアペンタアは言つてゐる。「私の経験では、小農者は地方住民中で最善、最優なるものである。私がこゝに小農者といふのは、四十エーカー以下の地を耕作する者を言ふ。(一エーカーは約四反歩)彼等は一般に多芸多能であつて、種々な仕事に変通自在で器用である。そして是れは、狭い場所にて一切を自分で処理せねばならない処から、その必要に迫られて器用にもなり、変通自在にもならしめられる為なのである。かうした人達は、農耕の外に牧畜や斬毛にも携はり、多少は鍛冶屋の仕事も出来る。自分で小屋の修繕もすれば、新らしく建てもする。(自作農の場合には)……若し其耕地が充分でない場合には外に出て労働もする。或は石屋の仕事もすれば、左官屋の仕事もする。此種の人達は多く技能に富み、仮令《たとへ》読み書きの方には不得意でも、或る意味に於て、善く教育された者と言ふことが出来る。」(カ翁著『自由産業の方へ』九九頁)更に言つてゐる。「大農制に於ては、大抵分業が過ぎる。例へば一人は牛方、一人は犁持、一人は馬力、といふ工合に種々に分業が行はれる。そして其結果として、彼等はその分業の溝の中にはまつて了ひ、その限界と活動とは制限される。……その結果として、彼等本来
前へ
次へ
全12ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 三四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング