側から、帰納的に地方色というものの存在を認めている事は確かである。日本人の作品には自ら日本の地方色とも見るべきものがある。仏国人の作、英国人の作、皆然りである。しかし、これは地方色の存在を認めるのであって、その価値を認めるのではない。附随物として認めるのであって鑑賞の対象物とは認めないのである。石炭ガスを造ると、骸炭《コオクス》が取れる。取れるから序に取るのである。取ろうと思わないでも取れるのである。日本人の手になったものは結局日本的である。日本的になるのである。日本的にしようとせずともなるのである。しかたのない腐れ縁なのである。僕は作品の鑑賞において、そのいわゆる地方色を自分の感じに置かずして作にあらわれた地方色そのものに無限の権威を持たせてそのままに味いたいのである。今日僕等が見ていわゆる地方色と見えない作品も後に至って顧れば、やはり明治の今日の色彩なのである。と考えたいのである。もしこの地方色というものを、作家自身の PERSOENLICHKEIT に任せてしまわないで、鑑賞者が恣に口を出す事になると、畢竟一つの桎梏を作家に加えるわけになる。地方色という観念は厳格に考えると、一つ
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