「事なのである。やはり思うだけの事は述べて見たい。
 僕は生れて日本人である。魚が水を出て生活の出来ない如く、自分では黙って居ても、僕の居る所には日本人が居る事になるのである。と同時に、魚が水に濡れているのを意識していない如く、僕は日本人だという事を自分で意識していない時がある。時があるどころではない。意識しない時の方が多い位である。人事との交渉の時によく僕は日本人だと思う。自然に向った時には、僕はあまりその考えが出て来ない。つまり、そう思う時は僕の縄張りを思う時である。自我を対象のものの中に投入している時にはこんな考えの起って来よう筈がない。
 僕の製作時の心理状態は、従って、一箇の人間があるのみである。日本などという考えは更に無い。自分の思うまま見たまま、感じたままを構わずに行《や》るばかりである。後《のち》に見てその作品がいわゆる日本的であるかも知れない。ないかも知れない。あっても、なくても、僕という作家にとっては些少の差支えもない事なのである。地方色の存在すら、この場合には零《ゼロ》になるのである。
 地方色の価値をかなりに尊重している人は今の画界になかなか多い事である。日本の
前へ 次へ
全12ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング