れていたのである。しかるに、今日見れば矢張り外の国の人には画けないフランスの香いがする。これ等はすべて、魚に水の香のするようなものである。力めて得たのでなくして、おのずから附帯して来たのである。これを力めて得ようとすると芸術の堕落が芽をふいて来る。
僕は朱塗の玉垣を美しむと共に、仁丹の広告電燈にも恍惚とする事がある。これは僕の頭の中に製作熱の沸いている時の事である。製作熱の無い時には今の都会の乱雑さが癇に触ってならないのである。僕の心の中には常にこの両様の虫が喰い込んでいる。これと同じように、僕はいわゆる日本趣味を尊ぶと同時に、非日本趣味にも心を奪われること甚だしい。またこれと同じように、日本の地方色というものをやや世間の人と人並に見てはいながら、心の叫びはその地方色の価値を零にしてしまうのである。従って西洋じみたものを見ても、西洋じみたという事については些少も反感を持たないのである。「緑色の太陽」を見ても気を悪くしないのである。
僕は混雑した感想を混雑したままに書いてしまった。僕が見ては下らぬ事に考えられて、世間ではかなりに重大視されているいわゆる地方色の事を一言したかったのに過
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