あれば旅費と向うに行って一時就職する迄の費用はあると言う。そうなってみると親父の方が一生懸命で、何でもかんでもやろうと、とうとう僕もその時始めて背広服というものを作ったのである。
 僕は英語は相当達者だった。学校時代から神田の正則英語学校に通っていたので、英語については自信があった。正則に通うと言っても当時のことゆえ今のように乗物はなく、歩いていれば時間が間に合わない。それで自転車を買って一日中学校を駆け廻って勉強した。僕の家ではもと音楽が禁じられていたので、僕は小学校の時代から唱歌もやらないで通した。それは僕の曾祖父《そうそふ》に当る人が富本の名人であったが、何か悪い人の為に毒薬を飲まされ、全身がふらふらになり、祖父はそのために酷《ひど》い苦しみをしたのである。従って僕の親父もそのため一生涯大変な苦労をした。そんなわけで僕の家では誰に限らず子供の時から音楽は禁じられてしまった。
 僕の母なども長唄から笛などもやった人であるが、きつく禁じられていた。祖父はまた大津絵などをとても上手く唄っていたのを覚えている。僕はだからいまだに君ヶ代も満足には歌えない。小学校の試験の時には唱歌は歌えないので、その代り僕はオルガンを弾いた。美術学校時代にはヴァイオリンを神田小川町の高折周一先生についてさかんにやった。忙しい学校歴訪の間に、自転車の後にヴァイオリンを乗せて通っていた。
 こうして僕はアメリカへは日露戦争のすんだ後一九〇六年の二月に出掛けた。ロンドンにいた時にはマンドリンをやった。ピアノはミス ファウラーについて一寸勉強したがすぐやめた。
 そんなにやっていた楽器もある日ザウエルの音楽書を読んでその日限り止めてしまった。一つの音を出すにも並大抵のことではないという真剣な芸術論に触れ、自分のやっていたことがまるで冒涜《ぼうとく》のようにふり返られたのである。
 大体以上が美術学校時代である。
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(追記、長沼守敬先生は今年七月十八日房州館山町で長逝せられた。享年八十六。)
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[#地付き](談話筆記)



底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
青空文庫
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