仮にアジャンタ洞窟の壁画を想い出してみると、そこにはもっと、肉体性の卑近さがあり、なまなましさがあり、うるささがある。節度[#「節度」に傍点]の美については殊に大和民族特有の規律を此処に見る。壁面にぐりぐり画をかくとか、建築の隅から隅までに彫刻を一ぱい彫りつけて立派だとする他民族の神経はわれわれから見ると野蛮である。印度、ビルマ、アナン、ジャワあたりの仏教建築をはじめ、欧洲に於けるゴシック建築の装飾彫刻の如き過剰の美は、美の最も高きものとはいいにくい。
 金堂壁画の秀抜な節度[#「節度」に傍点]ある描法と、気品の高さ[#「高さ」に傍点]とはまだ世界に本当には知られていない高度な美の源泉であって、これまた将来人類一般の美意識鍛錬に重大な意味を持つものである。

   夢違観音

 法隆寺金堂の壁画が意味する日本美の源泉として、其の肉体性を超越した精神至上の美と高さの美と、その表現に当っての節度の美とを前に述べた。此の白鳳《はくほう》の遺作に加えて、もう一つ同時代の、しかも甚だしくその性格を異にする日本美の源泉となり得るものを挙げて置きたい。法隆寺に安置せられ、世に夢違観音と俗称せられる銅造観世音菩薩立像である。
 夢殿、中宮寺を含む法隆寺一郭の中にわれらの美の淵源とすべき彫刻の充満していることはいうまでもない。金堂安置の薬師如来像のような聖徳太子御在世中の造像にかかるものや、同金銅|釈迦《しゃか》三尊像や、所謂|百済観音《くだらかんのん》像や、夢殿の救世《くせ》観世音菩薩像、中宮寺の如意輪観音と称する半跏《はんか》像の如き一聯《いちれん》の神品は、悉《ことごと》く皆日本美の淵源としての性質を備えている。殊に夢殿の秘仏救世観世音像に至っては、限りなき太子讃仰の念と、太子|薨去《こうきょ》に対する万感をこめての痛惜やる方ない悲憤の余り、造顕せられた御像と拝察せられ、他の諸仏像とは全く違った精神雰囲気が御像を囲繞《いじょう》しているのを感ずる。まるで太子の生御魂《いきみたま》が鼓動をうって御像の中に籠《こも》り、救世の悲願に眼をらんらんとみひらき給うかに拝せられる。心ある者ならば、正目には仰ぎ見ることも畏《かしこ》しと感ぜられる筈であり、千余年の秘封を明治十七年に初めて開いたのがフェノロサという外国人であったという事であるが、これは外国人だからこそ敢て為し得たというべきである。様式だけは北魏に則《のっと》って造られているが、この破天荒とも言うべき表現の直接性は決して様式伝習の間から生れているのではなく、却《かえっ》て様式|破綻《はたん》から溢《あふ》れ出る技術と精神|気魄《きはく》との作ったものである。作者がしゃにむになって、むしろ有る限りの激情をうちつけに具象化したものと考えられる。あらたかな御像という物凄いほどの力がその超越的な写実性から来る。作者が絶体絶命な気構で一気に此の御像を作り上げ、しかも自分自身でさえ御像を凝視するのが恐ろしかったような不思議な状態を想見することが出来る。藤原時代に早くも秘仏としておん扉を固く閉じ奉ることに定められたという事のいわれが分るような気がする。この御像にはあらゆる宗教的、芸術的約束を無視した、言わばただならぬもの[#「ただならぬもの」に傍点]があるのである。私は今日でもこの御像は再び秘仏として秘封し奉る方がいいのではないかとさえ思っている。たしかに太子が推古の御代を深くおもい給い、蒼生《そうせい》の苦楽をあわれませられ、更には衆生の発菩提心《ほつぼだいしん》に大悲願をかけさせられる生御魂がここにおわすのである。多くの美学者によって言われるような、強勁《きょうけい》とか厳正とか自若とか慈悲抱擁とかいうようなものだけでは余りよそよそしくて、この御像の真を伝え得ない。もっとあらたかな、おそろしいものがあることを感ずべきである。従ってこの御像の写真撮影は悉く失敗に帰している。この御像は日本彫刻美の淵源としてその随一な権威を持つものであるが、私が敢て写真を掲げないのはそういう理由に基いている。今後どのような優れた写真家が出てこの御像の真を撮影し得るようになるかは測り知れないが、恐らくその撮影はその写真家の命取りとなるであろうと想像される。
 夢殿の救世観世音像は、こういう意味で古今を独歩する唯一無二の霊像であり、彫刻美としてのみ語るのはまことに心無きわざとなるのである。美の日本的源泉として飛鳥《あすか》時代が持つ要素は、おしなべてその様式や性格の部分的抽出をゆるさない。それはすべて全体性から来て居り、美に於ける精神の優位を語る根本の問題である。様式のみからいえば大陸の六朝や隋の移入が目立ち、まだ土着自生の域に達していない。聖徳太子が法隆寺の建築其他に於て成し遂げられた大陸分子の濾過《ろか》摂取の妙は
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