化の一新紀元が劃《かく》せられた。美の領域に於ける太子の偉業は今日から見て実に世界大なものがある。
 聖徳太子の日本美顕揚の御遺蹟は現に大和法隆寺に不滅の光を放っている。太子は比類なき聡明《そうめい》な知性を持たせられたと同時に極まりなき美の感性に富ませられ、又実に即決即断の明快な技術的手腕をも兼備させられた。太子の美的直覚の鋭く強く、決然として日本美の中核を把握せられてあやまるところなく、多くの外来の高僧や優秀な帰化工人等の意見を吟味させられ、取るべきは取り捨つべきは捨て、豊饒《ほうじょう》な大陸文化を十分に摂取しながら、よく日本独特の美の源泉を濁らしめず、現場の技術者等をも用捨なく指揮統率あらせられた御姿は実に颯爽《さっそう》たるものであった。
 推古天皇十五年、太子によって建立せられた法隆寺の建築そのものが既にただの大陸寺院建築の模倣ではなく、立派な日本的理念の表現に基いているのは言う迄もないが、今問題にしようとする金堂壁画の美に至ってはますますその感を深くする。金堂四面の壁にそれぞれ画かれた浄土変相の図は大規模な模写事業が現今行われていたりして、既に説明を要しないほど世間に知れ渡っている。同様な構図の壁画が印度《インド》アジャンタ洞窟内にもあり、それとの比較が普通に行われ、以前にはその移植であるかのような説をなす者さえあったが、今日では印度発生の斯《か》かる構図形式が西南アジア諸国の間を通過しているうちに、印度臭を脱却し、西域地方の特色に変貌し、それが支那朝鮮を経て日本に渡来したものと推定せられるようになった。その経過がどのようであろうとも、此の金堂の壁画は太子の息吹により純粋に日本美の諸要素に貫かれて、まったく他の如何なる国土にもない美を顕現している。写真に掲出した画面は西方|阿弥陀《あみだ》浄土の一部であり、本尊阿弥陀仏の脇侍《わきじ》、向って右側の多分|観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》の像であろうと思う部面の上半に過ぎないが、まことに美の一片は美の全体であると言われる通り、これだけでも其の壁画の美の如何なるものであるかを窺《うかが》うに十分である。埴輪《はにわ》で見た清らかさ[#「清らかさ」に傍点]の美が又此処にも在る。ここには又節度[#「節度」に傍点]の美がある。高さ[#「高さ」に傍点]の美がある。肉体を超えた精神至上[#「精神至上」に傍点]の美がある
前へ 次へ
全15ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング