彫り成すことに造型の心理的意味が加わり、この棒立ちの薬師如来に精神形象の具体化が生れた。意力の発現[#「意力の発現」に傍点]がこれほど真摯《しんし》に行われているものは少い。美の切実性[#「美の切実性」に傍点]は日本からこそ起るのが当然である。われわれは今|斯《かく》の如き芸術を求める。われわれの祖先は斯の如きものを遺した。これを美の日本的源泉の一つとするかせぬかは、われわれ自身の意力の厚薄如何にかかっている。

   藤原期の仏画

 今日、日本画の特長を人が語る時多く水墨画の美を挙げる。外国人が最も心をひかれるのも水墨画であるという。現にさき頃仏印地方に日本画の展覧会を開いた時も最も好評を博したのは水墨画であったという事であり、従って今後外国で展覧会を開く時は水墨画を多く出陳する方がいいというような説まで耳にする。なるほど水墨画の類は日本支那に於て独特の発達を遂げちょっと外国では見られない美の深さにまで到達している。その点では確に日本の水墨画は、日本特殊の美の領域を堅持していて他の追随を許さない。
 私は今、美の日本的源泉として日本芸術の根蔕《こんたい》に厳存していて今後ますます生成発展せしむべき諸性質を考えているのであるが、以上の事実にも拘《かかわ》らず、この水墨画偏重の理念には大に警戒すべきものがあると信ずる。
 そもそも日本美の顕揚という事は決して日本の特殊美を以てのみ世界に臨もうとするのではないという事を十分注意すべきである。通俗的な意味で考えられる所謂日本的美という特殊性のみを追ってゆけば結局非常にせまい、限られた特質ばかりが残ってしまって、それらの性質のみを以て日本美を守るような消極的な気持に落ち込めば今後世界の美の諸源泉に立ち向う場合、ついに堂々たる態勢のものとなり得ない事となるのである。あれも日本的でない、これもいけないと排他的に考えるよりも、一切の善きもの、世界の美のあらゆる範疇《はんちゅう》を日本美に抱摂すべきであろう。つまり美のあらゆる範疇を日本美の健康性と清浄性とによって起死回生せしめねばならないのである。当今世界の近代美は爛熟《らんじゅく》と廃頽《はいたい》と自暴自棄とに落ち込んでいる。この一切をもう一度新鮮な黎明《れいめい》の美にかえさしめるのがわれわれ日本民族の仕事である。
 水墨画の美、もとより日本美の雄なるものである。しかし日本
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