真和上のような肖像の神品となる。
 奈良朝後期には唐招提寺や大安寺のような新様の形式が大陸の影響下に生れ、それが又日本美に一段の奥深さを加えて弘仁期への橋を成している。唐招提寺金堂には今でもそれらの巨像がずらりと並んでいる。聖林寺の十一面観音像は又これとは離れて独立した天平後期の雄大の気を示顕する。
 今は原作を見るよしもないが、天平盛期にあたっていしくも聖武天皇は国家の総力をあげて東大寺に五丈余尺の金銅|毘盧舎那仏《びるしゃなぶつ》を建立あらせられた。この記念碑的製作の様式についての民族的本能から来る美の採択は恐らく劃期的《かっきてき》なものがあったであろう。それは内、国家を統一し、外、国力を唐《から》天竺《てんじく》にまでも示し、日本が世界の美の鎔鉱炉《ようこうろ》であることを千幾百年の古しえ、世に示そうとされたのである。
 斯《か》くの如く天平期の日本芸術の美は絢爛《けんらん》を極めているが言い得べくんばこれはすべて完成|綜合《そうごう》の美であって、真の意味での新らしい芽は無い。すべて飛鳥白鳳期に胚胎《はいたい》せられたものの進展成熟であり、例えば夢殿の救世観世音《くせかんぜおん》像に見るようなあの言語道断な、真剣な魂の初発性は見られない。
 天平期の完成に伴う諸弊害を一掃せられた英邁《えいまい》な桓武天皇の平安遷都前後にあたってもう一度人心は粛然として真剣の気を取りもどした。
 京都神護寺に厳存する木彫薬師如来立像を美の日本的源泉の一つとして今特記しようとするには説明がいる。この所謂《いわゆる》弘仁期直前に製作せられた一木造りの如来像は世間普通には晩唐様式の模倣であってむしろ日本的性格の甚だ少いそれゆえ其様式もあまり永続きしなかったものとして考えられている。一応|尤《もっと》もなのであるが、さてその晩唐の本家たる大陸にこれだけの内容と技術とを持った優れた仏像は無い。その晩唐様式の影響というのは唯わずかに衣襞《いへき》の線条の形式や全体の様式の形骸にとどまっていて、その生命とするところは晩唐のだらけた駄作とは根本的に正反対である。概して多くの写真は撮影のかげんで殆どその面影もわからないのであるが、此像の持つ真剣な原始力は世界に類を求め難いほど特異なものである。飛鳥白鳳や天平にもなかった精神内奥の陰影がその形象の上に深く刻みつけられている。刀刃を以て木材を刻み
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