きである。様式だけは北魏に則《のっと》って造られているが、この破天荒とも言うべき表現の直接性は決して様式伝習の間から生れているのではなく、却《かえっ》て様式|破綻《はたん》から溢《あふ》れ出る技術と精神|気魄《きはく》との作ったものである。作者がしゃにむになって、むしろ有る限りの激情をうちつけに具象化したものと考えられる。あらたかな御像という物凄いほどの力がその超越的な写実性から来る。作者が絶体絶命な気構で一気に此の御像を作り上げ、しかも自分自身でさえ御像を凝視するのが恐ろしかったような不思議な状態を想見することが出来る。藤原時代に早くも秘仏としておん扉を固く閉じ奉ることに定められたという事のいわれが分るような気がする。この御像にはあらゆる宗教的、芸術的約束を無視した、言わばただならぬもの[#「ただならぬもの」に傍点]があるのである。私は今日でもこの御像は再び秘仏として秘封し奉る方がいいのではないかとさえ思っている。たしかに太子が推古の御代を深くおもい給い、蒼生《そうせい》の苦楽をあわれませられ、更には衆生の発菩提心《ほつぼだいしん》に大悲願をかけさせられる生御魂がここにおわすのである。多くの美学者によって言われるような、強勁《きょうけい》とか厳正とか自若とか慈悲抱擁とかいうようなものだけでは余りよそよそしくて、この御像の真を伝え得ない。もっとあらたかな、おそろしいものがあることを感ずべきである。従ってこの御像の写真撮影は悉く失敗に帰している。この御像は日本彫刻美の淵源としてその随一な権威を持つものであるが、私が敢て写真を掲げないのはそういう理由に基いている。今後どのような優れた写真家が出てこの御像の真を撮影し得るようになるかは測り知れないが、恐らくその撮影はその写真家の命取りとなるであろうと想像される。
夢殿の救世観世音像は、こういう意味で古今を独歩する唯一無二の霊像であり、彫刻美としてのみ語るのはまことに心無きわざとなるのである。美の日本的源泉として飛鳥《あすか》時代が持つ要素は、おしなべてその様式や性格の部分的抽出をゆるさない。それはすべて全体性から来て居り、美に於ける精神の優位を語る根本の問題である。様式のみからいえば大陸の六朝や隋の移入が目立ち、まだ土着自生の域に達していない。聖徳太子が法隆寺の建築其他に於て成し遂げられた大陸分子の濾過《ろか》摂取の妙は
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