の脇のあたりに突きさすやうな動きをするが、さういふ時身体全体は依然として朦朧と立つてゐる。立つてゐる形は崩れない。一つの形から一つの形への推移が純粋なのであらゆる瞬間が彫刻である。彫刻に於ける「形」といふのは必ず主要な形態に一切を統一して、その動勢の意味を公理ある型にまで上昇せしめたものである。決して中途半端な、あいまいな、四散するやうな二次三次的な形態はとらないのである。さういふ点で能の動作の各瞬間が彫刻的一齣であるといへる。それ故、面をかけた首に個人的な曲り癖が見えたり、上体のぐらつきが見えたり、ほんの心持だけでも故なく旁視したりする気はひが見えたりすると甚だをかしいといふことである。さうであらうと想像される。それほど厳重な造型であるだけに、逆に、天冠の纓絡などがきらきらと細かく揺れ動いてゐるやうな時、その美しさ、きらびやかさはまさに天上のものとなり、又怨霊などの黒頭の毛がふわふわと自然にゆれ動くのが何ともいへず気味わるく、凄く目にうつる。自然に動いてゐるものの方が、能では一種別様な世界のものに見えてくる。
 その上、能の装束そのものが既に彫刻的の性質を帯びてゐる。すべて大きく、輪郭がきつぱりしてゐて、甚だしく嵩のあるところと、細くひき緊つたところとが必ずあつて、抑揚がつき、どんな姿勢をしても全体から輪郭の突飛な逸脱を起さない。或る図形のうちに統一されて動いてゐる。これは幅びろな装束類や着附のおのづから構成する彫刻的な綜合性である。さういふシテが置物のやうなワキと調和ある位置を終始保つて去来するありさまを見て、われわれがそれを彫刻の延長のやうに感ずるのは無理がないであらう。
 面の問題になると、これはもとより彫刻そのものの問題である。舞台で見ると、仮面の方が真実の面で、直面の方が一時的の面のやうに見える。仮面の方に永遠な芸術力があつて、人間の生の顔の方には唯何某といふ人の、芸術の素材に過ぎない個人的人面があるばかりであるからである。能舞台全体の造型的な空気の中にあつては瞬きをしない、抑揚の強い能面こそ正常の表現を持つものであり、電車の中ででも見られる生きものの人面は甚だしく貧弱な、些細な、仮性の表現を持つものとならざるを得ない。芸術の威力をこれ程はつきり見せられることも珍しい。能面は人面の彫刻的要約である。従つてそこには彫刻的省略と誇張とがある。しかもそれは概ね
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