のものは全く動揺しない。木で作つた彫刻が自然と前方に進んで来るやうである。面をかけた首の動きは観る者に非常に強く響くので、首は正しい位置を守つて微動もしない。立ちどまつて体をまはし、腕をひらくやうな時にも、決して中間の無駄な動作を交へない。最後の形に到る最も当然な動きを、丁度輪郭がおのづとほぐれていくやうに運ぶ。輪郭を乱さない。シテ柱に立つたまま謡へば二三年はたちまち経過する。斜め横に身体を向きかへるといふやうなわづかな動作はそれ故非常に烈しい変化を感じさせる。シテがワキに向つて迫るやうな時、つッつッつッつッと早足に進んでぴたりと止まる。進む時には進むといふ純粋な動きに一切が要約せられて、ここにも造型上の雑入がない。生きた人間の動作といふものはもともと甚だ強い感銘を与へるので、われわれの日常生活の動作は、その強さを和げるためにいつでも中途半端な動きをしてゐるのである。いはば動きの意味を稀薄にして融通のきくやうにしてゐるとも言へる。いろいろの分子を紛れこましてあいまいなうちに事を運んでゐるやうなものである。能ではさういふことがない。動きは純粋で、決定的で、最後的である。それ故微細の動きも甚だ強い。その動きはたとへば人間の動作の無水原質のやうなもので、われわれ日常の動きはいつでもそれに水を割つてゐる。その無水原質が更に凝圧されて、じつと静かに不動の形となる時、それは実に激甚な内面の動きとなる。曾て或人の「山姥」を脇から観たことがあるが、その老女が何といふのか甚だ地味で質素な青味がかつた色合の扮装で正面にうづくまるやうにこごみ加減に下に居て長い間じつとしてゐる姿には、その内面の激情が妖気を帯びて物凄いばかりに感じられた。これは殆ど一つの彫刻が置いてあるのと同じであり、彫刻と違ふところは、物そのものが呼吸をし、音声を出している点に過ぎない。面にこもつて出てくるあの一種の音声がしづかに物寂びて、四辺の空気に深い山林の精気をただよはす。その中にじつとしてゐる此の造型物はきりりとしまつて、よくこなされてゐて、些少の駄肉もない。これは彫刻の持つ神秘感をそのまま舞台に見る一例であるが、能に於ける動きのあらゆる場合がこの性質を持つてゐること言をまたない。「道成寺」の乱拍子のやうなところは素より、随分はげしい所作の時でも、その造型性は厳然と保たれる。「藤戸」の怨霊が杖をはげしく振つて自分
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