をふんで歩いた。
そこら一面がポムペイヤンの香りにむせた。
昨日までの私の全存在の異和感が消えて
午前五時の秋爽《さわ》やかな山の小屋で目がさめた。

[#天から27字下げ]昭和二三・九
[#改ページ]

  もしも智恵子が

もしも智恵子が私といつしよに
岩手の山の源始の息吹《いぶき》に包まれて
いま六月の草木の中のここに居たら、
ゼンマイの綿帽子がもうとれて
キセキレイが井戸に来る山の小屋で
ことしの夏がこれから始まる
洋々とした季節の朝のここに居たら、
智恵子はこの三畳敷で目をさまし、
両手を伸して吹入るオゾンに身うちを洗ひ、
やつぱり二十代の声をあげて
十本一本のマツチをわらひ、
杉の枯葉に火をつけて
囲炉裏の鍋《なべ》でうまい茶粥《ちやがゆ》を煮るでせう。
畑の絹さやゑん豆をもぎつてきて
サフアイヤ色の朝の食事に興じるでせう。
もしも智恵子がここに居たら、
奥州南部の山の中の一軒家が
たちまち真空管の機構となつて
無数の強いエレクトロンを飛ばすでせう。

[#天から27字下げ]昭和二四・三
[#改ページ]

  元素智恵子

智恵子はすでに元素にかへつた。
わたくしは心霊独存
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