はれ、昭和七年アダリン自殺を計り、幸ひ薬毒からは免れて一旦健康を恢復《かいふく》したが、その後あらゆる療養をも押しのけて徐々に確実に進んで来る脳細胞の疾患のため昭和十年には完全に精神分裂症に捉《とら》へられ、其年二月ゼームス坂病院に入院、昭和十三年十月其処でしづかに瞑目《めいもく》したのである。
彼女の一生は実に単純であり、純粋に一私人的生活に終始し、いささかも社会的意義を有《も》つ生活に触れなかつた。わづかに「青鞜」に関係してゐた短い期間がその社会的接触のあつた時と言へばいえる程度に過ぎなかつた。社会的関心を持たなかつたばかりでなく、生来社交的でなかつた。「青鞜」に関係してゐた頃|所謂《いはゆる》新らしい女の一人として一部の人達の間に相当に顔を知られ、長沼智恵子といふ名がその仲間の口に時々上つたのも、実は当時のゴシツプ好きの連中が尾鰭《をひれ》をつけていろいろ面白さうに喧伝《けんでん》したのが因であつて、本人はむしろ無口な、非社交的な非論理的な、一途《いちず》な性格で押し通してゐたらしかつた。長沼さんとは話がしにくいといふのが当時の女友達の本当の意見のやうであつた。私は其頃の彼女をあまり善く知らないのであるが、津田青楓氏が何かに書いてゐた中に、彼女が高い塗下駄をはいて着物の裾を長く引きずるやうにして歩いてゐたのをよく見かけたといふやうな事があつたのを記憶する。そんな様子や口数の少いところから何となく人が彼女に好奇的な謎《なぞ》でも感じてゐたのではないかと思はれる。女|水滸伝《すいこでん》のやうに思はれたり、又|風情《ふぜい》ごのみのやうに言はれたりしたやうであるが実際はもつと素朴で無頓着《むとんちやく》であつたのだらうと想像する。
私は彼女の前半生を殆ど全く知らないと言つていい。彼女について私が知つてゐるのは紹介されて彼女と識《し》つてから以後の事だけである。現在の事で一ぱいで、以前の事を知らうとする気も起らなかつたし、年齢さへ実は後年まで確実には知らなかつたのである。私が知つてからの彼女は実に単純|真摯《しんし》な性格で、心に何か天上的なものをいつでも湛《たた》へて居り、愛と信頼とに全身を投げ出してゐたやうな女性であつた。生来の勝気から自己の感情はかなり内に抑へてゐたやうで、物腰はおだやかで軽佻《けいちよう》な風は見られなかつた。自己を乗り越えて進まうとする
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