私の生命《いのち》であり
この静寂は私の神である
しかも気むつかしい神である
夏の夜の食慾にさへも
尚ほ烈しい擾乱《じようらん》を惹き起すのである
あなたはその一点に手を触れようとするのか

いけない、いけない
あなたは静寂の価を量らなければいけない
さもなければ
非常な覚悟をしてかからなければいけない
その一個の石の起す波動は
あなたを襲つてあなたをその渦中に捲き込むかもしれない
百千倍の打撃をあなたに与へるかも知れない
あなたは女だ
これに堪へられるだけの力を作らなければならない
それが出来ようか
あなたは其のさきを私に話してはいけない
いけない、いけない

御覧なさい
煤烟《ばいえん》と油じみの停車場も
今は此の月と少し暑くるしい靄《もや》との中に
何か偉大な美を包んでゐる宝蔵のやうに見えるではないか
あの青と赤とのシグナルの明りは
無言と送目との間に絶大な役目を果たし
はるかに月夜の情調に歌をあはせてゐる
私は今何かに囲まれてゐる
或る雰囲気に
或る不思議な調節を司《つかさど》る無形な力に
そして最も貴重な平衡を得てゐる
私の魂は永遠をおもひ
私の肉眼は万物に無限の価値を見る
しづかに、しづかに
私は今或る力に絶えず触れながら
言葉を忘れてゐる

いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない

[#天から27字下げ]大正元・八
[#改ページ]

  からくりうた

[#天から6字下げ](覗きからくりの絵の極めてをさなきをめづ)

国はみちのく、二本松のええ
赤の煉瓦の
酒倉越えて
酒の泡からひよつこり生れた
酒のやうなる
よいそれ、女が逃げたええ
逃げたそのさきや吉祥寺
どうせ火になる吉祥寺
阿武隈《あぶくま》川のええ
水も此の火は消せなんだとねえ
酒と水とは、つんつれ
ほんに敵《かたき》同志ぢやええ
酒とねえ、水とはねえ

[#天から27字下げ]大正元・八
[#改ページ]

  或る宵

瓦斯《ガス》の暖炉に火が燃える
ウウロン茶、風、細い夕月

――それだ、それだ、それが世の中だ
彼等の欲する真面目とは礼服の事だ
人工を天然に加へる事だ
直立不動の姿勢の事だ
彼等は自分等のこころを世の中のどさくさまぎれになくしてしまつた
曾《かつ》て裸体のままでゐた冷暖自知の心を――
あなたは此《これ》を見て何も不思議が
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