日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
[#ここで字下げ終わり]
私自身は東京に生れて東京に育っているため彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来ず、彼女もいつかは此の都会の自然に馴染む事だろうと思っていたが、彼女の斯《か》かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかった。彼女は東京に居て此の要求をいろいろな方法で満たしていた。家のまわりに生える雑草の飽くなき写生、その植物学的探究、張出窓での百合花やトマトの栽培、野菜類の生食、ベトオフェンの第六交響楽レコオドへの惑溺《わくでき》というような事は皆この要求充足の変形であったに相違なく、此の一事だけでも半生に亘る彼女の表現し得ない不断のせつなさは想像以上のものであったであろう。その最後の日、死ぬ数時間前に私が持って行ったサンキストのレモンの一顆《いっか》を手にした彼女の喜も亦この一筋につながるものであったろう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗われているように見えた。
彼女がついに精神の破綻《はたん》を来すに至った更に大きな原因は何といってもその猛烈な芸術精進と、私への純真な愛に基く日常生活の営みとの間に起る矛盾|撞着《どうちゃく》の悩みであったであろう。彼女は絵画を熱愛した。女子大在学中既に油絵を画いていたらしく、学芸会に於ける学生劇の背景製作などをいつも引きうけて居たという事であり、故郷の両親が初めは反対していたのに遂に画家になる事を承認したのも、其頃画いた祖父の肖像画の出来栄が故郷の人達を驚かしたのに因ると伝え聞いている。この油絵は、私も後に見たが、素朴な中に渋い調和があり、色価の美しい作であった。卒業後数年間の絵画については私はよく知らないが、幾分情調本位な甘い気分のものではなかったかと思われる。其頃のものを彼女はすべて破棄してしまって私には見せなかった。僅かに素描の下描などで私は其を想像するに過ぎなかった。私と一緒になってからは主に静物の勉強をつづけ幾百枚となく画いた。風景は故郷に帰った時や、山などに旅行した時にかき、人物は素描では描いたが、油絵ではついにまだ本格的に画くまでに至らなかった。彼女はセザンヌに傾倒していて自然とその影響をうける事も強かった。私もその頃は彫刻の外に油絵も画いていたが、勉強の部屋は別にしていた。彼女は色彩について実に苦しみ悩んだ。そして中途半端の成功を望まなかったので自虐に等しいと思われるほど自分自身を責めさいなんだ。或年、故郷に近い五色温泉に夏を過して其処の風景を画いて帰って来た。その中の小品に相当に佳いものがあったので、彼女も文展に出品する気になって、他の大幅のものと一緒にそれを搬入したが、鑑査員の認めるところとならずに落選した。それ以来いくらすすめても彼女は何処の展覧会へも出品しようとしなかった。自己の作品を公衆に展示する事によって何か内に鬱積《うっせき》するものを世に訴え、外に発散せしめる機会を得るという事も美術家には精神の助けとなるものだと思うのであるが、そういう事から自己を内に閉じこめてしまったのも精神の内攻的傾向を助長したかも知れない。彼女は最善をばかり目指していたので何時でも自己に不満足であり、いつでも作品は未完成に終った。又事実その油絵にはまだ色彩に不十分なもののある事は争われなかった。その素描にはすばらしい力と優雅とを持っていたが、油絵具を十分に克服する事がどうしてもまだ出来なかった。彼女はそれを悲しんだ。時々はひとり画架の前で涙を流していた。偶然二階の彼女の部屋に行ってそういうところを見ると、私も言いしれぬ寂しさを感じ慰の言葉も出ない事がよくあった。ところで、私は人の想像以上に生活不如意で、震災前後に唯一度女中を置いたことがあるだけで、其他は彼女と二人きりの生活であったし、彼女も私も同じ様な造型美術家なので、時間の使用について中々むつかしいやりくりが必要であった。互にその仕事に熱中すれば一日中二人とも食事も出来ず、掃除も出来ず、用事も足せず、一切の生活が停頓《ていとん》してしまう。そういう日々もかなり重なり、結局やっぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばならず、おまけに私が昼間彫刻の仕事をすれば、夜は食事の暇も惜しく原稿を書くというような事が多くなるにつれて、ますます彼女の絵画勉強の時間が喰われる事になるのであった。詩歌のような仕事などならば、或は頭の中で半分は進める事も出来、かなり零細な時間でも利用出来るかと思うが、造型美術だけは或る定まった時間の区劃《くかく》が無ければどうする事も出来ないので、この点についての彼女の苦慮は思いやられるものであった。彼女はどんな事があっても私の仕事の時間を減らすまいとし、私の彫刻をかばい、私を雑用から
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