、其頃平塚雷鳥女史等の提起した女子思想運動にも加わり、雑誌「青鞜《せいとう》」の表紙画などを画いたりした。それが明治末年頃の事であり、やがて柳八重子女史の紹介で初めて私と知るようになり、大正三年に私と結婚した。結婚後も油絵の研究に熱中していたが、芸術精進と家庭生活との板ばさみとなるような月日も漸《ようや》く多くなり、其上|肋膜《ろくまく》を病んで以来しばしば病臥《びょうが》を余儀なくされ、後年郷里の家君を亡《うしな》い、つづいて実家の破産に瀕《ひん》するにあい、心痛苦慮は一通りでなかった。やがて更年期の心神変調が因となって精神異状の徴候があらわれ、昭和七年アダリン自殺を計り、幸い薬毒からは免れて一旦健康を恢復《かいふく》したが、その後あらゆる療養をも押しのけて徐々に確実に進んで来る脳細胞の疾患のため昭和十年には完全に精神分裂症に捉えられ、其年二月ゼームス坂病院に入院、昭和十三年十月其処でしずかに瞑目《めいもく》したのである。
 彼女の一生は実に単純であり、純粋に一私人的生活に終始し、いささかも社会的意義を有《も》つ生活に触れなかった。わずかに「青鞜」に関係していた短い期間がその社会的接触のあった時と言えばいえる程度に過ぎなかった。社会的関心を持たなかったばかりでなく、生来社交的でなかった。「青鞜」に関係していた頃|所謂《いわゆる》新らしい女の一人として一部の人達の間に相当に顔を知られ、長沼智恵子という名がその仲間の口に時々上ったのも、実は当時のゴシップ好きの連中が尾鰭《おひれ》をつけていろいろ面白そうに喧伝《けんでん》したのが因であって、本人はむしろ無口な、非社交的な非論理的な、一途《いちず》な性格で押し通していたらしかった。長沼さんとは話がしにくいというのが当時の女友達の本当の意見のようであった。私は其頃の彼女をあまり善く知らないのであるが、津田青楓氏が何かに書いていた中に、彼女が高い塗下駄をはいて着物の裾を長く引きずるようにして歩いていたのをよく見かけたというような事があったのを記憶する。そんな様子や口数の少いところから何となく人が彼女に好奇的な謎でも感じていたのではないかと思われる。女|水滸伝《すいこでん》のように思われたり、又風情ごのみのように言われたりしたようであるが実際はもっと素朴で無頓着《むとんじゃく》であったのだろうと想像する。
 私は彼女の前半生を殆ど全く知らないと言っていい。彼女について私が知っているのは紹介されて彼女と識《し》ってから以後の事だけである。現在の事で一ぱいで、以前の事を知ろうとする気も起らなかったし、年齢さえ実は後年まで確実には知らなかったのである。私が知ってからの彼女は実に単純|真摯《しんし》な性格で、心に何か天上的なものをいつでも湛《たた》えて居り、愛と信頼とに全身を投げ出していたような女性であった。生来の勝気から自己の感情はかなり内に抑えていたようで、物腰はおだやかで軽佻《けいちょう》な風は見られなかった。自己を乗り越えて進もうとする気力の強さには時々驚かされる事もあったが、又そこに随分無理な努力も人知れず重ねていたのである事を今日から考えると推察する事が出来る。
 その時には分らなかったが、後から考えてみれば、結局彼女の半生は精神病にまで到達するように進んでいたようである。私との此の生活では外に往く道はなかったように見える。どうしてそうかと考える前に、もっと別な生活を想像してみると、例えば生活するのが東京でなくて郷里、或は何処かの田園であり、又配偶者が私のような美術家でなく、美術に理解ある他の職業の者、殊に農耕牧畜に従事しているような者であった場合にはどうであったろうと考えられる。或はもっと天然の寿を全うし得たかも知れない。そう思われるほど彼女にとっては肉体的に既に東京が不適当の地であった。東京の空気は彼女には常に無味乾燥でざらざらしていた。女子大で成瀬校長に奨励され、自転車に乗ったり、テニスに熱中したりして頗《すこぶ》る元気|溌剌《はつらつ》たる娘時代を過したようであるが、卒業後は概してあまり頑健という方ではなく、様子もほっそりしていて、一年の半分近くは田舎や、山へ行っていたらしかった。私と同棲《どうせい》してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰っていた。田舎の空気を吸って来なければ身体が保たないのであった。彼女はよく東京には空が無いといって歎《なげ》いた。私の「あどけない話」という小詩がある。

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智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながらいふ。
阿多多羅山の山の上に

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