される。香料は皆言わば稀薄《きはく》である。香水の原料は悪臭である。所謂《いわゆる》オリジナルは屍人くさく、麝香《じゃこう》は嘔吐《おうと》を催させ、伽羅《きゃら》の烟《けむり》はけむったい油煙に過ぎず、百合花の花粉は頭痛を起させる。嗅覚《きゅうかく》とは生理上にも鼻の粘膜の触覚であるに違いない。だから聯想的《れんそうてき》形容詞でなく、厚ぼったい匂や、ざらざらな匂や、すべすべな匂や、ねとねとな匂や、おしゃべりな匂や、屹立《きつりつ》した匂や、やけどする匂があるのである。
味覚はもちろん触覚である。甘いも、辛いも、酸いも、あまり大まかな名称で、実は味わいを計る真の観念とはなり難い。キントンの甘いのはキントンだけの持つ一種の味的触覚に過ぎない。入れた砂糖の延長ではない。
乾いた砂糖は湿った砂糖ではない。印度《インド》人がカレイドライスを指で味わい、そば好きがそばを咽喉《のど》で味わい、鮨《すし》を箸《はし》で喰べない人のあるのは常識である。調理の妙とはトオンである。色彩に於けるトオンと別種のものではない。
五官は互に共通しているというよりも、殆ど全く触覚に統一せられている。所謂第六官といわれる位置の感覚も、素より同根である。水平、垂直の感覚を、彫刻家はねそべっていても知る。大工はさげふりと差金で柱や桁《けた》を測る。彫刻家は眼の触覚が掴《つか》む。所謂|太刀風《たちかぜ》を知らなければ彫刻は形を成さない。
彫刻家は物を掴みたがる。つかんだ感じで万象を見たがる。彼の眼には万象が所謂「絵のよう」には映って来ない。彼は月を撫でてみる。焚火《たきび》にあたるように太陽にあたる。樹木は確かに一本ずつ立っている。地面は確かにがっしり其処にある。風景は何処をみても微妙に組み立てられている。人体のように骨組がある。筋肉がある。肌がある。そうして、均衡があり、機構がある。重さがあり、軽さがある。突きとめたものがある。
此処に一つの詩がある。こんな風に一人の彫刻家は人生をまでも観る。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
或男はイエスの懐に手を入れて二つの創痕を撫でてみた
一人のかたくなな彫刻家は
万象をおのれ自身の指で触つてみる
水を裂いて中をのぞき
天を割つて入りこまうとする
ほんとに君をつかまへてからはじめて君を君だと思ふ
[#ここで字下げ終わり]
彫刻家が君をつかまえるという時、其れは君の裸をつかまえるという事を意味する。人間同志は案外相互の裸を知らないものである。実に荷に余るほどのものを沢山着込んで生きている。彫刻家はその附属物をみんな取ってしまった君自身だけを見たがるのである。一人の碩学《せきがく》がある。その深博な学問は其人自身ではない。その人自身の裸はもっと内奥の処にあたたかく生きている。カントの哲学はカント自身ではない。カント自身はその哲学を貫く中軸の奥に一個の存在として生きている。厨川白村の該博な知識は彼自身ではない。彼自身は別個の存在として著書|堆積裏《たいせきり》に蟠居《ばんきょ》している。その人の裸がその学問と切り離せない程偉大な事もある。又その学問の下に聖読庸行、見るも醜怪な姿をしている事もある。世上で人が人を見る時、多くの場合、その閲歴を、その勲章を、その業績を、その才能を、その思想を、その主張を、その道徳を、その気質、又はその性格を見る。
彫刻家はそういうものを一先ず取り去る。奪い得るものは最後のものまでも奪い取る。そのあとに残るものをつかもうとする。其処まで突きとめないうちは、君を君だと思わないのである。
人間の最後に残るもの、どうしても取り去る事の出来ないもの、外側からは手のつけられないもの、当人自身でも左右し得ぬもの、中から育つより外仕方の無いもの、従って縦横|無礙《むげ》なもの、何にも無くして実存するもの、この名状し難い人間の裸を彫刻家は観破したがるのである。だが裸は埋没され叮嚀《ていねい》に匿《かく》されているのが常である。善いにせよ、悪いにせよ、それが事実である。いくら理想家でも、人間に即刻裸で歩けとは言えないであろう。実に人世とは裸を埋没させる道場かと見えるばかりだ。しかし、着物が多くても少くても実際は構わない程、結局するところ、人はのがれられないものである。価値を絶したところに、其の人の真の姿があらわれて来る。彫刻家は此の無価値に触れたがる。なるほど人生には敵味方がある。又其の故に社会は進展する。けれども彫刻家の触覚はもっとその奥の処にごッつりしたものを探ろうとする。だから彼の見方は大抵の場合此の現世に逆行する。現世を縦に割る見方である。其処までゆかないと落ちつかない。人生の裸をつかまえなければ、人生を人生と思えない。人生の裸とは唯世間の真相をのみ意味するのではない。所謂現実
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング