。バッハのコンチェルトなどをきいてひどくその無意味性をうらやましく思うのです。言語による以上、言語の持つ意味を回避するのは言語に対する遊戯に陥る道と考えるので、その意味をむしろ媒体として、その媒体によって放電作用を行うというわけです。それからさきの方法と技術と、その結果としての形式と、その発源としての感覚領域とについては今なおいろいろと研鑽《けんさん》中の始末で、これが又、日本語という特殊な国語の性質上、実に長期の基本的研究と、よほど視力のきいた見通しとを必要とするので、なかなか生半可な考え方に落ちつくわけにゆきません。ともかく私は今いわゆる刀刃上をゆく者の境地にいて自分だけの詩を体当り的に書いていますが、その方式については全く暗中摸索という外ありません。いつになったらはっきりした所謂《いわゆる》詩学《ポエチイク》が持てるか、そしてそれを原則的の意味で人に語り得るか、正直のところ分りません。
私は以上のような者であり、又以上のような場に居ます。これで今私が詩について書けないといういわれを書いたことになるでしょうか。ともかくもこの通りです。
底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
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