一ヶ月足らずは花巻町の院長さん邸に逗留しなければならなかつた。その一ヶ月は丁度五月から六月にかけてのことなので畝作り、播種、施肥、その他栽培に一番肝要な時期だつたわけであるから、不在のままだつた私の開墾も畑もすつかり仕事が遅れてしまつた。六月末に山に帰つてみると、エン豆、インゲン、ジヤガイモなどはどうやら物になつたが、稗の苗などは雑草にすつかり食はれてしまつてゐた。一旦はびこり出した雑草はまだ不自由な右手の働きぐらゐでは中々退治がむつかしく、私の畑は雑草の中にいろんな作物が居留してゐるやうな状態となり、実にさんたんたるものであつた。
その上、北上川以西の此の辺一帯は強い酸性土壌であり、知れ渡つた痩地である。そのことは前から知つてゐたし、又さういふ土地であるから此所に移住してくる気になつたのである。北上川以東には沖積層地帯の肥えた土地がたくさんあるのであるが、私はさういふ地方の人気のよくないことを聞き知つてゐたのである。野菜などが有りあまる程とれる地方では其を商品とする農家の習慣が自然とその土地の人気を浅ましいものにするのである。此所のやうに自給自足すら覚束ないやうな痩地の所へは買出しの人さへやつて来ず、従つて農人はおのづから勤勉であると同時に悪びれもせず、人間本来の性情を素直に保つてゐる。実際太田村山口の人達は今の世に珍しいほど皆人物が好くてのどかである。その代り強い酸性土壌なのである。そこで私はタンカルを使つた。これは宮沢賢治が在世の頃東北砕石会社の生産品として、彼自身もその売りひろめに奔走した石灰類なのであるが、今日漸くその効用がひろく認められて、今でも、東磐井郡長坂村付近にその後継会社があり、炭酸カルシウム、略してタンカルと呼ばれて、さかんに売り出されてゐる模様である。私はこれを宮沢家の手を経て此の部落に一車分配給してもらひ、部落の農家の間で少しづつ分けたのである。おかげでホウレン草もどうやら育ち、大豆、小豆などもうまくいつた。
昨年はかなりの日照り年で、部落の中では井戸の涸れた家もある程であり、畑地も乾きすぎて大根の二葉が枯れ、小豆も不出来といふ騒ぎであつたが、私の畑は湿け気味の地面なので小豆も茄子も里芋もトマトも甚だよく出来た。小豆は思つたよりも多くとれ、殊に茄子とトマトは成績よく、霜の来るまでさかんに実りつづけた。
ジヤガイモは開墾地と畑地と両方に
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