れども美しい。天平の塑像もよい。当時の塑像は西洋流の塑像の拵え方とは違って、固い泥で押えつけて拵えたものだ。西洋流の塑像のモデリングという風な考え方だと、比較的柔い自由自在になる泥で捏《こ》ねて拵える感じがあるが、日本のは固い泥を次から次に叩いて拵えたものだから制作の感じがまるで違う。
更に遡《さかのぼ》れば、私は夢殿の観音を最高のところに置きたい。此は彫刻などと呼ぶ以上に精神的な部類に入って了う。この御像は彫刻の技術としては無器用であるけれども、その無器用な所が素晴しい。彫刻的には不調和で無茶苦茶な作であるが、寧《むし》ろその破綻《はたん》から良さが出て来て居り、完全に出来ていない所から命が湧いて来ている例である。お顔と衣紋《えもん》は様式的に全く違う。御|身躯《からだ》は漢魏式の決りきったやり方を踏襲しているが、お頭や手は丸で生きている人を標準にして刻んで附けている。法隆寺金堂の薬師にもその傾きはあるけれども夢殿の観音の方が甚しい。あの御像は確かに聖徳太子をお作りする積りで拵えたに違いないと私は信じる。それで時間的には短い期間に早く拵えた作だと思う。長く考えながら拵えた作ではない
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