。松戸の学校の庭に建っていたが、此度供出した。それから女子大の成瀬仁蔵先生を拵えたが、これは暇がかかって十七年かかった。私はその人に実際に会ってみないと仕事が本当に行かない。成瀬さんにお目にかかったのは亡くなる直前で、首を作る為に行ったのでは困るからというので、お見舞ということにして病床でお目にかかっただけだから印象が薄かった。後は写真と学校の女の先生に会って聞いただけでやった。後には、成瀬さんが始終やらせていた理髪師を呼んで来て、頭の恰好《かっこう》を見て貰ったりした。女の先生の印象はいい加減なものだったが、理髪師の方は「此処のところが尖《とが》っていた。」とか、非常にはっきりしていた。序《つい》でがあって一両年前女子大で見たけれども、作としては味いがなくて余りよくない。
 智恵子の首は随分拵えたし、父の首も可成作っている。中には地震の時に毀《こわ》れたものもあるし、自分で毀したものもあるが、大体は残っている。久しくやっている団十郎の首は、石膏《せっこう》でとるつもりで始めたが、今は石膏がないから泥で固めて了おうと思っている。初めから塑像にするつもりならば、それはそれで味いの違うもの
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