を見てのみこまなければならないということを悟った。
それ以来、私は何を見てもその軸を見ない中には仕事に着手しない。ところがその軸を見つけ出すことは容易ではない。然し軸は魚にも木の葉にも何にでも存在する。それを間違わずに見つけ出すのは、なかなか大変ではあるが、結局自然の成立ちを考え、その理法の推測のもとに物を見て、それに合えばいいし、そうでない時には又見直したりしてやるのである。木の葉一枚でもそれを見ないでやったものは、本当の謂《いわ》れが分らないから彫ったものが弱い。展覧会などにも、そういう弱い作品が沢山あるが、形は本物と一寸も違わないけれども、その形の拠り所が分っていないから肝心のところで逃げていて人形のようになって了う。人形と彫刻とは丸で格段の違いである。その違う製作的根拠をはっきりと気がついたのはその栄螺の彫刻の時だ。
然し彫刻にしようとする自然物の中にも彫刻性のあるものとないものとがある。例えば果物にしても桃は彫刻になるが林檎《りんご》はならない。魴※[#「魚+弗」、第3水準1−94−37]や鯉は彫刻になるが、鯛はならない。お目出度いものだから鯛はよく彫られるが、単独に彫刻
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