のような画風から脱却して、自分の本当の画に転換した初めで、主に写生で、移り変りの時期だったから幼稚なことは仕方なかったが、非常に質のいい仕事であった。※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]《に》え返るような若い時代の連中で毎日進んで行くというような時代だから、二三日|遇《あ》わないと何処かしら解らなくなって了うという風な毎日を送っていた。だから殆と毎日遇っていたと言っていい位顔を会せて議論したり描いたりしたものだ。あんな猛烈な時代というものは尠《すくな》いだろうと思う。私が結婚したのは丁度その当時である。岸田劉生、木村荘八、清宮彬の諸君とはとりわけ親しくつきあっていた。然しいつの場合でも、私は運動の中心になるというのではなく、傍系のような形でやって居たと言えるであろう。
 そういう人々の印象派や後期印象派のような仕事が段々やっているうちにそれではどうにも行かなくなって御破算になり、正直に自分の見たものを描くより仕方がないというに立到った。岸田君は余りそんなことをしている中に胸を悪くし、鵠沼《くげぬま》に引込んで仕事をしていたが、その頃から岸田君の仕事は本当の画になって来たよ
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