ていた時代である。当時、真田久吉君という学校にいた時非常によく出来る人だったが、この人がわが国の印象派の傾向のような人を率いて運動をやろうとしていたところに、偶々《たまたま》斎藤与里さんが帰って来て一緒になって新しい美術の運動を起そうとした。其処に予《かね》てそういう考を抱いていた岸田劉生や木村荘八の諸君が合体して、フューザン会が成立した訳だ。フューザン会という名は斎藤与里さんがつけたのである。私は帰国して暫くした時で、父が六十一の還暦の祝でその肖像を私が作ったが、それが新傾向だというので評判になり、フューザン会の彫刻の方を私に入ってくれという話で勧められて加わった。あんなに熱っぽい運動というものは少い。然し中に二色あるのが矢張別れるもとで、斎藤さんなどの方は多少社会運動のような意味で道楽気があったが、岸田さんの方は本当にむきな芸術運動の積りであった。それで二回位やったけれど別れて了い、生活社というのを拵え、私は其の方に入った。神田にヴィナス クラブというのがあって、其処で、岸田劉生と木村荘八と僕ともう一人、四人で展覧会をやった。私は上高地で写生した油絵を可成出した。岸田君は後期印象派
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