ても金が稼げるから、年を老《と》ってからでは危い。」というので、無理遣《むりやり》に背広など拵えて始めて着たりして厭《いや》で仕方がなかったが、行くことに決めた。然し愈々《いよいよ》行くと決ってからは、皿洗いをしてでもやろうと考えていた。岩村さんはシカゴの博覧会の時にその審査員になって行って、向うの審査員に知合があったから、マクニール、フレンチ、ボノーなどという人達に宛てて「|最も将来ある《モーストプロミッシング》」彫刻家だからなどという紹介状を書いてくれた。それを命の綱として、父から二千円貰って出かけたけれど、旅費を取ると実にポッチリのわけだった。然も紹介状などは何の役にもたたなかった。そして働くといっても私の取る金は一週六ドルか七ドルの少いものだから、なかなかであった。後には父から金を拵えて送ってくれてはいたけれども、実に僅かな金なので、英吉利《イギリス》に渡ってからは農商務省の練習生というのにして貰い、月々六十円程貰ってやっていた。世話になったポーグラム先生という人は非常にいい人でいろんな事を助けてくれた。世間では沢山金でも持って行ったように思って、向うに居ても金持の連中などで対
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