であった。私ばかりでなく機運が皆そんな風に動いていた。山本筍一がキリストの説教のところを作るとか、細谷三郎が俊寛を拵えるとか、何か文学的要素を持っているのがいいということになって、題も変てこな文学的な題をつけたものだ。後々まで悪い影響を学校の彫刻に与えたのは其処らから始っているようである。
 学校を出て研究科に入ったが、彫刻科の先生は残らず駄目であった。何等の新知識もないし仕方がない。洋画科の方を見ると黒田清輝先生のような人も居て進んで居るからというので、再入学して洋画科に入った。その時の同級生に藤田嗣治、森田恒友、岡本一平、田辺至の諸君などがいた。洋画を一年ばかりやった頃、岩村(透)さんが、「どうして洋画などへ入ったのだ?」と訊《き》くので「洋画へ入って新しい知識も得るしデッサンなどもやってみたい。」と言うと、「彫刻をやるのに、洋画は違うのだから、そんな無駄なことはしない方がいいだろう。」というので、岩村さんが父に持ちかけ、無茶苦茶に私の外国行をすすめた。私は外国に行くといっても、いろいろ研究してからの方がいいと思っていたので余り行く気がしなかったが、父は「今のうちなら自分も無理をし
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