哥連《あにいれん》に背負われて行ったものだ。喧嘩の仕方なども、祖父から聞いて知っている。然し祖父が足を洗って隠居してからも連中が祖父のところに出入するのを、父は実に厭《いや》がったものだ。祖父は丁髷《ちょんまげ》をつけて、夏など褌《ふんどし》一つで歩いていたのを覚えている。その頃裸体禁止令が出て、お巡りさんが「御隠居さん、もう裸では歩けなくなったのだよ。」と言って喧《やかま》しい。そしたら着物を着てやろうというので蚊帳《かや》で着物を拵え素透《すどお》しでよく見えるのに平気で交番の前を歩いていた。谷中に移ってから父の住んでいる家の向う側の長屋を隠居所ということにして、夏の夕方など、長屋の格子の向うは障子になっていたが、其処で影絵を始めて評判になり、随分人が集まるようになった。祖父は声が自慢で、大津絵などうまく、影絵をやりながら唄ったりして、そういうことをやるのが楽しみのようであった。ものにこだわらない明るい気性で、後で考えると私共を実によく労《いたわ》ってくれたことがわかる。
 祖母は、私の生れた明治十六年に亡くなったが、なかなか偉い人のように思える。埼玉県の菅原という神官の娘で手蹟な
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