母の御蔭である。母は之を非常な貧乏の中でやっていた。竹筒をぶら下げておいて、一銭二銭のお金を入れ、月末に家賃になるだけ入れなければ家賃が払えないような貧乏であった。後に、父が美術学校の先生になってから、やっと生活が当り前に出来るようになったが、それからは学校の先生同志とのつきあいもあり、お弟子もふえたけれど、父は祖父の気性を承《う》けて派手なことが好きだったから、母は決して楽ではなかったらしい。谷中に来てからは、学校の先生になったというので、父を「先生」と呼ぶことにして通し、父が学校から戻ると家中の子供から弟子まで集めて玄関に迎えるようにしたので、初は私達子供は面食《めんくら》って了った。その頃は相当な学校の先生というと歩かないで皆車に乗った。俥屋が「お帰り」と大声で言うと、ずっと前に並んで出迎えて弟子達にも先生というものの位をつけさせたのだ。先ず威儀から始めて、以前の職人を直そうというのであった。あらゆる父の欠点は、母がすべて蔭になって外に現れないように尽し、それは当時はあたり前のような事に思えたが、その当り前のことがなかなかの事だということが、母が亡くなってみるとはっきりと分った。
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