ことを考えるのは煩い。だから考えたことはない。自己解剖など私にはさっぱり興味がない。そんな風で、この頃よく以前の歳を訊かれることがあるけれども、よく覚えていないようなわけである。
日記もつけたりつけなかったりである。生涯のうちでも一番緊張して重要な時は、日記などつける余裕もなく、従って後から一番知りたいと思うような時期の日記が欠けている。
又言うまでもないことだが、吾々《われわれ》の記憶というものも本当の事実に正確であるかどうかも甚だ覚束《おぼつか》ない。過去の事実を屡々《しばしば》記憶のうちに喚《よ》び醒《さま》しているうちに、吾々は回想の中にその事実を次第に潤色し、いつかそれが本当の事実だと記憶して了うような場合も少くない。子供の時分から私は屡々父の回顧談を聴いたが、父は同じ話を何度も繰返しているうちに、その細部などいつか変って来ていることもあった。話の調子に乗って語っている間に、実際に父の記憶がそういう風になって来ていたのであろう。実際、歴史というものは、そういう堆積《たいせき》なのかもしれない。無数の事実の中から一種の創造が行われているわけなのである。
父は子供の時、十
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