を見てのみこまなければならないということを悟った。
それ以来、私は何を見てもその軸を見ない中には仕事に着手しない。ところがその軸を見つけ出すことは容易ではない。然し軸は魚にも木の葉にも何にでも存在する。それを間違わずに見つけ出すのは、なかなか大変ではあるが、結局自然の成立ちを考え、その理法の推測のもとに物を見て、それに合えばいいし、そうでない時には又見直したりしてやるのである。木の葉一枚でもそれを見ないでやったものは、本当の謂《いわ》れが分らないから彫ったものが弱い。展覧会などにも、そういう弱い作品が沢山あるが、形は本物と一寸も違わないけれども、その形の拠り所が分っていないから肝心のところで逃げていて人形のようになって了う。人形と彫刻とは丸で格段の違いである。その違う製作的根拠をはっきりと気がついたのはその栄螺の彫刻の時だ。
然し彫刻にしようとする自然物の中にも彫刻性のあるものとないものとがある。例えば果物にしても桃は彫刻になるが林檎《りんご》はならない。魴※[#「魚+弗」、第3水準1−94−37]や鯉は彫刻になるが、鯛はならない。お目出度いものだから鯛はよく彫られるが、単独に彫刻の題材にはならない。いろいろな物の中から彫刻性を多分に帯びているものを選び出して、それを題材とするのでなければ無意味である。それが解らないで無茶苦茶にやるのは、未だ彫刻が解っていないのだと思う。一寸見ると摘《つま》んでみたい位に本物らしく出来ている果物の彫りものとか、よく鮭を一枚一枚|鱗《うろこ》を拵えて本物のように彫ってあるものなどがあるが、ああいうのは本当の意味の彫刻ではなく、根附彫のような細工物になって了う。私なら鮭の頭だけ拵える。鮭も首だけにしてみると、彫刻的組立が出来て来る。
又このこととは反対に、人間の力で彫刻的に表現されたものを、更に二重に彫刻として表現することも無意味だと思う。例えば能の舞台の姿は、一方から言うと、空間に於ける彫刻的な感銘を意図し振舞われている姿であるから、一種の彫刻的表現が大きな要素になっている。それを更に彫刻に拵えることは無意味だと私は思っている。
私の乏しい作品も方々に散って、今は所在の解らないものが多い。「魴※[#「魚+弗」、第3水準1−94−37]」など相当に彫ってあるので、時々見たいと思うけれども行方不明である。何か寄附する会があって、
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