ものがあるが、なる程、ああいうようにやるからああいう風に出来るのだということが見ると夫々《それぞれ》分るのである。
父からは、前にも述べたように直接弟子が教わるように教えては貰えなかった。私に対しては、手をとって教えるということは元よりない。又作ったものを見て貰うと言っても、いいとか悪いとか言うことはない。余り見苦しいと削って渡されるだけで、何処がどうということはない。改った教育は何もして貰えなかった。ただ為来《しきた》りに外れるようなことがあると怒られた。例えば仕事をしておいて、そのままにして出かけたりすると猛烈に怒られた。「職人というものは何処で仕事をしていたのだか分らないようにしていなければいけない。道具をうっちゃって置くようでは仕方がない。」と叱られた。だから仕事を奇麗にしまわないうちは、他のことは何も出来なかった。仕事の済んだ後の細工場は檜舞台《ひのきぶたい》のように奇麗にして、明日の仕事に備えていた。私は年中細工場にいて、何か始っているとすぐ割り込んで、父が弟子に教えているのを聞いた。
小刀がどうやら研げるようになると、地紋の稽古《けいこ》をやらされた。地紋は仏師の方の伝統で仏師屋では実際にそれが必要なのだ。だからその稽古が伝統になっていて、私はその時は訳もわからず否応なしにやらせられて、実に厭であった。初めに父が端の方だけをやってくれて、後を習ってやるのだが、全く手に負えない。然しそれをよく彫る為には刃物も研がなければならぬしそれで刃物のことも解って来る。その稽古は檜の材に限って、今見ると勿体ないような五寸角で裏表やったものだ。一番初めに縦横の線だけのものをやる。一つの枠の中に四本の溝を同じ間隔で彫るのだが、その深さがなかなか揃わない。深さが揃っても今度は総体に深過ぎたり浅過ぎたりする。深過ぎると何かギリギリしてギスついた地紋になり、浅いと嵩《かさ》のない弱いものになって了い、丁度いい深さというものが幅に比例してあるのだが、それがなかなか呑込めない。その幅、深さの関係が非常にうまく合わないと地紋のよさが出て来ない。昔はそんなことは決して説明はしなかったから、「此は面白くない。」と言われるだけで、何故よくないのか分らない。同じことを新しくやり直す。その次が工地紋というのをやって、少しずつ複雑になるのだが、実は複雑な程易しくなるのであって、最初の簡単
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