哥連《あにいれん》に背負われて行ったものだ。喧嘩の仕方なども、祖父から聞いて知っている。然し祖父が足を洗って隠居してからも連中が祖父のところに出入するのを、父は実に厭《いや》がったものだ。祖父は丁髷《ちょんまげ》をつけて、夏など褌《ふんどし》一つで歩いていたのを覚えている。その頃裸体禁止令が出て、お巡りさんが「御隠居さん、もう裸では歩けなくなったのだよ。」と言って喧《やかま》しい。そしたら着物を着てやろうというので蚊帳《かや》で着物を拵え素透《すどお》しでよく見えるのに平気で交番の前を歩いていた。谷中に移ってから父の住んでいる家の向う側の長屋を隠居所ということにして、夏の夕方など、長屋の格子の向うは障子になっていたが、其処で影絵を始めて評判になり、随分人が集まるようになった。祖父は声が自慢で、大津絵などうまく、影絵をやりながら唄ったりして、そういうことをやるのが楽しみのようであった。ものにこだわらない明るい気性で、後で考えると私共を実によく労《いたわ》ってくれたことがわかる。
 祖母は、私の生れた明治十六年に亡くなったが、なかなか偉い人のように思える。埼玉県の菅原という神官の娘で手蹟なども遺っているが、字も立派だし、神官の娘だけあって歌も詠むし、方位だとか暦のことは非常に委《くわ》しく、その書き遺したものなど見ると相当教養のある人だったように思われ、香具師の女房などには不思議な位である。人の話では何でも誘拐されて祖父の許《もと》に来たと言う。そして後妻になって祖父を扶《たす》け、それが祖父を感化して了った。祖父はもともとそれに生れついた人ではなかったから、祖母を貰ってからは足を洗おうとしていたらしいが、どういうきっかけか知らないが兎に角足を洗って、私の父が奉公の年季が明けた頃にはもう素人で、それから隠居して、父が当主になったのである。
 父には兄があって、それは先妻の子供で後まで中島と言っていたが、相当うまい大工であった。父は金華山のお寺に貰われてゆく筈であった。金華山にゆくことになったのも、神仏|混淆《こんこう》の時分だから、多分祖母の縁故からだと思う。ところがそれで頭を結いに行ったら、床屋の親爺が「そんな所へ行くのは惜しい。丁度|丁稚《でっち》を頼まれているから」というので、際どいところで仏師屋の高村東雲のところへ行くようになったのである。十二の年から十何年か勤
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