二で浅草清島町の裏長屋から仏師屋へ奉公に出た。清島町の家は河童橋の通にあった。変な蝮屋《まむしや》のあるような小さな露地を入った九尺二間の長屋のずっと続いている暗い家で、近所|界隈《かいわい》はそういうものばかりのようであった。其処で祖母が父を教育してそだてたのである。
私の家の先祖については、昔のことは分らない。父の言っていたのを受け継ぐより外ないが、鳥取の士分で、はっきりはしないが文化あたりに江戸に来て町人になった。髯《ひげ》の長兵衛と言われて、父のように髯が濃かったらしい。唯そんなことしか遺っていない。
祖父は気の毒な人で、子供の時から非常な苦労をした。その父親、つまり私の曾祖父《そうそふ》にあたる人は、嘉永にはならぬ位の徳川末期の時分で、丁度その当時流行した富本節が非常に巧く、美声で評判になったものらしい。それで妬《ねた》まれて水銀を呑まされたとか言うことだ。その為に声は出なくなる、腰は立たなくなる、そのせいかどうかわからないが一種の中風になった。祖父は小さい時からその父親の面倒をみて、お湯へでも何処へでも背負って行ったと言う。商売の方は魚屋のようなものだったらしいが、すっかり零落し、清島町の裏町に住んで、大道でいろいろな物を売る商売をして病気の父親を養った。紙を細かく折り畳んだ細工でさまざまな形に変化する「文福茶釜」とか「河豚《ふぐ》の水鉄砲」とか、様々工夫をしたものを売った。そんな商売をするには、てきやの仲間に入らなければならぬ。それで香具師《やし》の群に投じ花又組に入った。そのことは、父の「光雲自伝」の中には話すのを避けて飛ばしているが、――そうして祖父は一方の親分になった。祖父は体躯《たいく》は小さかったが、声が莫迦《ばか》に大きく、怒鳴ると皆が慴伏《しょうふく》した。中島兼吉と言い、後に兼松と改めたが、「小兼《ちいかね》さん」と呼ばれていて、小兼さんと言えば浅草では偉いものだったらしい。祖父の弟で甲府に流れて行って親分になった人があるが、これは非常に力持ちの武芸の出来た人で、その弟がついているので祖父の勢力が大変強かった。喧嘩《けんか》というと弟が出て行った。江戸中の顔役が集まって裁きをつけたりしたことがあったと言う。だから私は子供の時分、見世物は何処へ行っても無代《ただ》だった。その時は解らなかったが、後で考えるとそのせいだったらしい。よく兄
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